夢幻堂
反射的に目を開ければ、もうなにも見えない闇の中だった。うまく手足を動かすことができない。本当に水の中にいるみたいだった。
(息はできる)
さっきの黒いもやのようなものよりももっと冷たいなにかが俺を包む。ひやりと、心臓を掴まれた気がして全身から血の気が引く。身体中をあの黒いもやのような触手のような気味の悪いやつらにまさぐられて暴かれていく。
(気持ち悪い───!)
ばたばたと俺は闇の中で必死に手足を動かす。けれど、それはなにも掴めず、ただかすかに指先が動いた程度だった。やめろ、と叫んだ声は喉元で止まり、発することすらできない。俺の意識はそのままずぶずぶと闇の中へと沈んでいった。
まだ眠ったままの、刻まれた記憶へと。
「夫に会わせなさい! 私はあの人の正妻なのよ!?」
気味の悪い黒いなにかから解放された俺の耳に入ってきたのは、さっき俺の首をぎりぎりと絞め上げていた女だった。あんなにいつでも叫んでいたら疲れてしまうのではないかとどうでもいいことを考える。
さっきまでの気持ち悪さは消えていた。代わりに、ノイズがかった暗い残像のようなものではなく、自分自身がまるでこの場所にいるのだと思わず錯覚してしまいそうなほどリアルな光景が広がっている。そのことに少しだけほっとすると、ようやく当たりを冷静に見られるようになった。
(ん? あの女……自分の夫なのに自由に会えないのか?)
それはそれでおかしな話だ。きょろっとあたりを見回しても、それらしい人物はいそうもない。まぁ、そもそも会わせろとだれかに詰め寄っているくらいなのだから、近くにはいないのだろう。なにげなく高そうな調度品の数々が置いてある長ったらしい廊下をてくてくと歩いて、ふと立ち止まる。
「そういえば、動けるのか俺……なんだもっと早く気づけばよかった」
記憶を辿るのをただ俯瞰しているだけかと思っていたら、どうやら自分の意思で動けるらしいと、歩いてみて初めて分かった。何の気なしにそばにあった壁に触れてみる。触れられはするようだったが、ものに触っている、という感覚が薄い。多分、自分自身がここに存在しないものだからだろうが、なんだか不思議な感覚だった。そう、ちょうど夢の中をふわふわと歩いているようなそんな感覚だ。
「お、壁抜け」
どういうシステムなのか、触れずとも自由にこのなかを出入りできるらしかった。自由自在ということだろうか。触れられはするが、当然過去に干渉することはできないはずだ。だが、俺自身もいきなりこんな過去に放り込まれたのだから、右も左も分かるはずもない。ただ、入りたいと思えばするりとその部屋へ入れるし、多分ドアを開けて入ることも可能だろう。うっかり人がいるところでドアを開けたらどうなるのか、結構気になるところだ。騒ぎになるのだろうか。そんなくだらないことを頭の片隅で思いながら、記憶を辿るというのはこういうものなのだろうかと思う。
(いや……)
閉じ込められていた自分自身に、こんな記憶ありはしない。俺が閉じ込められていた家はこんなに広いなんて知らなかったし、金持ちそうな家だとは露ほども思わなかった。これは、だれの記憶なのか。
「考えたってどうせ分かんないんだろうけど───」
言いながら、壁を抜けて近くの部屋に入る。部屋の中には男がひとり、女がひとり芳しい香りのするお茶を前に優雅に座っていた。カーペットやらカーテンやら、目に見えるものほとんどが深紅と金で彩られた豪奢な部屋だ。そうか俺はこんなでっかい屋敷で生まれたのかと渇いた嗤いを浮かべた。そんなことはあの暗く冷たい牢獄からは想像もつかない。
冷めた目で室内を見渡しても、その男と女以外に人はいない。女はヒステリックに叫んでいた母親ではなく、肩がほとんどあらわになっている露出の高い服に身を包み、男のすぐ横にぴったりとくっついていた。男のほうはと言えば、にやつくわけでもなく、ただくつろいでいるように見えた。無表情だったからあくまでも推測だが。
(若くはない……よな。髪黒いけど)
一見、若く見える。鋭い眼に黒い髪。青年とは言えず、壮年と言ったほうがしっくりくるのはただの勘だ。でも、そう外れてはいないだろう。一緒にいる女も、男よりは少し若く見えるものの、妙齢というほどでもない。やつれて衰えていた母とたいして変わらなさそうだ。といっても、分かるのは同じくらいだ、ということくらいで一体いくつくらいに見えるかと問われれば黙るしかない。単純に答えだけを言えば、二人とも若いとは言えないということだけだ。
「まぁ……父親なんだろうな、俺の」
そして、導き出される答えとすればそれだ。じっとそいつを見て、ふと隣にいる女に気付く。
「あれは───"俺"のところに来てたやつか! なんだ、俺の勘もなかなか捨てたもんじゃない」
ゆるい巻き毛の女。あの暗がりでも顔立ちのはっきりとした、美しい女だ。やはり妻ではなく愛人なのだと推測が確信に変わる。しかし、こんな堂々となにをしているのか。一応形だけなのかもしれないが、自分の妻が子を絞め殺そうとしていたのにも関わらず、この男はいったいほったらかしで別の女と一緒にいる。"俺"という存在など、はじめから皆無のようだ。とはいえ、いまの自分が過去のだれかに問うことは不可能だ。俯瞰することしかできないのだから。
「……ねぇ、あの子どもはどうするの?」
父であろう男にしなだれかかっている艶かしい女が、俺の気持ちを代弁したかのようにそう聞いた。
「あれが死んだら、あいつはまた私に言い寄ってくるだろう。そのためには殺さずに閉じ込めておいたほうが後々役に立つ。あの女があれを殺してしまわないよう見張っておく必要があるがな」
無表情に男はそう言った。まさしく、あの玩具をどうするのと聞かれて、とりあえず取っておくとでも言うような軽さだった。俺は憤りやら恨みやらを通り越してただ苦笑を浮かべるしかなかった。殺してしまわないよう、と言うが、さっきまで見ていた自分自身は危うかった気もする。あと一歩で殺されかねなかった。
(生まれたことを認識してるだけまだマシなのか?)
それこそ微妙な話ではある。認識していたところで、俺のことを"あれ"と呼ぶこの男が俺を利用することはあっても守ることは絶対にしないだろう。
「……だったらさっさと別れればいいだろう」
不意に零れ落ちた言葉は、思いの外剣呑だった。そのことに、俺自身が一番驚く。なぜ。接点なんて皆無なのに。憤るほどのなにかがあるわけではないのに。どうしようもなく苛ついている自分自身が一番分からなかった。
傷ついているのだと分かるほど、シオンは自分の感情に鋭くはない。知らなかったから、会ったことがなかったから怒りを感じないなんてことはないということを、シオンは知らない。人を人として扱いもしない、ただ名称だけは父親という理不尽極まりないこの男に、シオンはどう思われたいのか気付はしないのだ。いまはまだ。
けれど。