夢幻堂
「あの人が許さないって言ったよな、そういえば。俺を殺すなって言ったのは、父親か?」
会ったことなんかない。いや、実際は一度くらいは会ったのかもしれないが、そもそもこの状態だった"俺"は個人を認識することなど不可能なのだから、会ったことはないはずだというほうが正しいか。……まぁ、そんな定義などどうでもいいのだけど。
(どっちにしたって、俺をこんなところに閉じ込めてなにも言わないんならあの女とおんなじだ)
殺すなと言う言葉だけを聞くと、少しは気にかけているのかと思うが、実際そうではないだろうと俺は読む。そんな風に考えた俺の周りを、黒いもやのような触手のような、一見してぞっとする闇色の何かが包み込んでいく。
「なんだ───!?」
抵抗するすべなんて持たない俺は、ただそれらに身を委ねるしかない。ひんやりとした感触とともに、目の前で繰り広げられていた母親による虐待行為の記憶が薄らぎ、目の前はあっという間に闇で包み込まれていった。
どろどろと、気味の悪い黒いなにかが俺の周りを漂い、縛りつける。とっさに瞑っていた目を空ければ、ノイズがかった暗い残像が現れていた。
「あなたが、あの人の息子なのね。……あの女は知らなかったのかしら……まぁそのほうが好都合だけれど」
突如冷たい鉄格子の檻の前に現れた女を、いまの俺は怪訝な面持ちで眺めた。当然、当時の自分に知らない人間が現れて驚いたとか怖いだとか、そんな感情は一切ない。相手が人間である、という認識を持っていたかすらも怪しい。視界のなかに動くモノがあるという程度の理解かもしれない。
(でも……少し、思い出した……気がする)
封じられていた記憶に入り込むことで、少しずつ情景が蘇ってくる。
「あれ、でも」
かぶせるようにして、女は口を開く。とても優しげな、慈愛に満ちた微笑みを浮かべながら。
「ねぇ、あなた、かわいそうね。こんなところに閉じ込められて、だれからも愛されなくて」
「なんだ……?」
ぞわりと背中を撫ぜる声。
「与えられるはずの愛情もなにもなくて、感情すら持っていないなんて、とってもかわいそうね? でも、悲しむ心すら持っていないのだから、そんなこと思いもしないのだろうけれど。ねぇ、知っているかしら。このお屋敷には使われていない部屋がたくさんあって、歴代の家族の肖像画が置いてある部屋もあるのよ。それを見たら、あなたが本来受けられるはずだったものが見えるわ。……どちらにしろ、出られないけれどね。見たところであなたは分かりもしないことが、とてもかわいそうだわ」
全身に絡みついて、まとわりつく甘い声。まるで、少しずつ侵食していく毒のような。包み込むような優しさの仮面をつけて、じわりと絞め殺していくような。裏の顔が見えるようで、背筋がうすら寒くなる。
「母親……の存在を俺に教えたのは、あんただったはず……でも俺は」
あんたが母親だと勘違いをしていた記憶がある───、と無意識に思った。少しずつ、このときの"俺"の記憶を取り戻しつつあるのだろうか。……どちらにしても、いい記憶でないことは確かだが。そもそもこの女は誰なのだ、と思う。「あの人の息子」というのならば、あの人はおそらく自分の父親で、その人の息子なんだと確認するように話しかけたということは、この女は自分の母親ではないのだろう。
(恋人……いや、愛人か)
美しい女だ、とは思う。ゆるやかな巻き毛は背中の真ん中ほどまで達し、それを無造作に下している。髪の色は黒ではなく、陽に透けると淡いブラウンにも見えそうな、ダークブラウンだ。もしこの時間軸が古いものなのだとしたら、この色は珍しいのかもしれなかった。どちらにしても、自分の母親ではなく、そして父親のそばにいる女だ誰なのかを考えたときに、一番シンプルに導き出せる答えは愛人だ。
もし、仮に、ありえないことだと分かっていて仮定として、俺自身が愛されていたのなら、とぼんやり考える。父親でも母親でも、どちらか一方に愛されていたのなら、こんなことにはなっていないはずだ。少なくとも、《柩の番人》に記憶を封じ込めなければならないような、そんな事態にはならないだろうと思う。だとするならば、自分は望まれない子供だったのだろう。あるいは生まれてから疎まれたか。いや、最初から疎まれていたのなら生まないようにすればよかっただけの話だ。だとするならば後者のほうが有力だろうか。
(要するに、愛し合ってなんかなかったんだろうな、お互いに)
なんの感慨も湧くことはなく、ただ思う。それに対して悲しみや怒りが心に宿ることはない。ただ分析するだけだ。
「……これを見せてどうするつもりだ、《柩の番人》?」
応えなどあるはずはない。ただ、周りをうごめく黒いなにかがぞわりと気味悪くまとわりついてくるだけだ。ともすれば、これらに呑み込まれてしまうのかもしれない。俺自身が、この過去の記憶を拒絶してしまったときに。あるいは、受けとめ切れずに壊れてしまったときに。けれど、あの色とりどりの瞳を、ぎょろりと"俺"を囲むように見ていた瞳たちを吐き気がすると感じた以外に、彼女らになにか思うことはなかった。これを見せられたところで、終わってしまったことを変えることはできはしないのだ。
「────受けとめて、俺はなにを得なきゃならないんだよ……」
わずかばかりの焦りと憤りを含めて、俺はぎりぎりと唇を噛みしめる。こんな光景、べつに好きで見ていたいわけでもない。強烈な毒を含んだ甘い声に、頭がぐらぐらとした。貼付けられた慈愛の仮面を、あの"俺"は見抜くことなどできはしない。からっぽの器に、あの女はたしかに感情と言葉のかけらを与えたのだ。
あの日を境に、あの女は頻繁に"俺"のもとを訪れた。
(何度も……くりかえして同じ話をしてたっけ……)
かわいそうね、と。その言葉は、少しずつ空の心を浸食していく。逃れられない、毒。
「毒、なんて……思ってもいなかったけどな……俺はきっとあんたに"愛情"ってもんを感じてたんだ……そんな言葉なんて知らなかったけど。あんたが置いてく言葉たちを、俺は吸収したんだ」
"お母さん"という単語も、母親という存在も、何度も言われた"かわいそう"という言葉も。ひとつひとつの意味は多分なにひとつ理解していなかったに違いない。あのころの"俺"は、泣いているだけの赤ん坊という歳ではなかったけれど、およそものごとを理解することはひどく難しかったのだろう。
(裏切り、者───)
あのころは、知らなかった。だから傷つかなかったし、悲しくなんてなかった。だけどいまなら分かる。希望を打ち砕いて裏切るために、あの女は"俺"に近づいたのだ。
「いまさらそれが何だってんだ!」
振り上げた拳は、どこにも当たらない。行き場を見失って、まとわりつく黒いなにかを少しだけ揺らしただけだ。燻る怒りの鎮め方すら俺は知らない。大声を上げたって何も変わらないと分かっているのに、上げずにはいられなかった。あああ、と言葉にならない叫びを上げて俺は目をギリッと閉じる。目眩がするほど強く。その光景をもう冷静に見てはいられなかった。耳のそばでごぽりとくぐもった水音が聞こえた。