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夢幻堂

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 本気で俺を憎み、疎ましく思い、壊れていった俺の母という人間は、壊れた末に俺を殺したのだった。その頃の自分の心情を、いまだ思い出せないでいる。
「穢らわしい」
 一日に何度も吐き捨てるように言われた言葉。俺はきっと理解できていなかったに違いない。俺はなにひとつ教えられることはなく閉じ込められていた。覚えているのはじめじめとしたコンクリートの上に申し訳程度に敷かれた毛布と真っ黒な檻。
(ああ───閉じ込められていたんだ)
 よくは覚えていないけれど、刻み込まれた情景ならきっと思い出せる。二色の瞳を閉じれば闇がそろりと俺を包み込む。ゆっくり、優しくなぶり殺すがごとく。
 見えるのは錆びついて黒ずんだ檻。
 凍えるほど冷たくて、一筋の光すらささない場所。
(暗い……のをどうして怖いと思わなかったんだろう)
 よく思い出せていないだけかもしれない、と俺は思う。けれど果たしてこの頃の俺に感情らしい感情があったとは考えがたい。本能としての恐怖以外はなにも知らなかった。俺はじっとりとカビだらけの冷たい牢獄で、ある意味正気でいられたのはそのせいかもしれない。でなきゃ正気でなんていられるわけがない。無意識に息が荒くなっていた。これを本能的に恐怖だと思わないんだったら、俺は一体なにを見ていたのだろう。
「やめろ……どうして俺を見る?」
 見ているのはいまの俺ではないことも分かっている。頭では分かっているのに、心がついていかない。あれは俺を見ていると知っている。気持ち悪い。吐き気がする。
(視える。無数の、メ、が)
 幻覚だ、と思い込みたかった。嘘でもいいから。だってきっと俺以外には見えていなかったに違いない。深紅、群青、緑青、橙黄、金、漆黒───色んな色の瞳がうごめいているのなんて、こんなものが四六時中そばにあったなら間違いなく発狂する。
「だけど俺は……ここにいたんだ。おぼえてる」
 そう、見慣れた光景。怖いとは、思わなかった。思うはずもなかった。あるはずのない目が──色とりどりの目だけが──不自然に浮き上がってぎょろぎょろしているのに。
(感情がないってのは……案外役に立ってたのかもな)
 軽い吐き気を覚えて無意識に目を逸らしたシオンは、昔の自分に嫌悪を覚えたことを知る。それを成長というのならば喜ぶべきことなのだろう。
 ごぽり、とすぐそばで不快な水音が聞こえた。粘り気のある、嫌な音。からめとられたら逃れられない。俺はそんな音をずっと聞いていたような気がする。ごぽごぽと沈めて這い上がれないような、昏い水の音。この音を、俺はずっと無感情のまま聴いていたのだろうか。それとも、これはいまだからこそ聴こえる音なのだろうか。
「気持ち、悪い。どうしてこんな目に遭わなきゃいけなかったんだ……どうして」
 身体の奥底からふつふつと沸き上がってくる、なぜ、どうして、という疑問だけがただ繰り返されていく。答えのないそれは、出口のない迷路を延々と彷徨うことに似ている。どうしたって、たとえなんの感情も知らなかったとして、それでもヒトとしての本能が完全になかったわけじゃない。
(そうじゃない……はずだ)
 覚えてなんかいないけれど。それでも、俺は俺なりの本能はあったはずだと、そう思いたい。
 そう、だって、どんなに虐げられても、子は親を慕うはずなのだ。縁(よすが)を求めて、無垢なままに手を伸ばす。何度裏切られ、傷つけられたとしても。純粋無垢そのものに。生れ落ちたその瞬間から愛されることのない、ただヒトという器の中に無理矢理入れこまれた人形のような俺だったとしても。
(そんなことを必死で言い訳してたって過去が変わるわけじゃない。俺はだれにも顧みられなかった。……腹を痛めたはずの母親でさえ)
 一般的な常識の範疇として、とくに哺乳類の子どもは愛らしく生まれてくると言う。
 なぜか?
 一説によれば、愛されるための本能らしい。言葉や文字を持ち、多彩な感情を持つ人間は、その傾向が顕著だ。赤ん坊はたいてい二頭身で、大きな瞳にやわらかい肌、親でなくとも庇護欲をそそられる姿をしている。それなのにも関わらず、冷たく湿気を帯びた光も差さない徹檻に閉じ込め、罵詈雑言を浴びせかけるとは何事なのだろう。
 気でも触れていたのか。
(狂っていたんだろうな)
 俺という異端者を産み落としてしまったがゆえに。本来は母と呼ばれるべきであった女は壊れてしまったのだ、と思う。至極冷静に。何の感情も湧いてはこない。それは母という存在を認識していなかったからなのか、理解していなかったからなのか。きっとそのどちらもだ。あの人間を目の前にしたところで、母であるということすら俺は思えないのだろう。
 自分自身を俯瞰しながら、そんなことを思う俺も同じように狂っているのだろうかと思う。違うと声高に言えるほど、俺は自分に自信はない。そんな俺の耳に、カツンとひときわ甲高い足音が聞こえた。反射的にびくりと肩をすくめ、それがわずかばかりの怯えを含んでいたことに自嘲する。
「忘れてても、身体は忘れちゃくれないってか……」
 じわじわとにじみ出てくる水のように、忘れていられた記憶が牙を剥きはじめる。柔肌にゆっくりと突き立てた棘のように、防御のすべも持たない魂は悪意という凶器でいくつもの傷を付けられていく。
「おまえがいるから! 生まれた子どもが、おまえのような悪魔じゃなければ! わたしは……わたしはすべてを手に入れられたのに。おまえさえ───!!」
 カツンカツンと靴音を響かせ、石でできた地下へと続く階段を下りてくるやいなや、女は悪鬼の形相でぼんやりと座る"俺"に罵詈雑言を浴びせかける。
「なによその眼は!? そんな穢らわしい眼でわたしを見るんじゃないわ! ああ、このまま殺してしまえればいいのに! あの人はそれをゆるしはしないのよ……ああいまいましい!!」
 見るなと言いながら、母親であろう女は"俺"に腕を伸ばす。逃げるそぶりすら見せず、本当にただの人形のような瞳を声をする方に向けたまま微動だにしない。そんな俺の首を掴むと、女は力任せにぎりぎりと絞めていく。うめき声ひとつあげない"俺"は、それでもさすがに顔は真っ白になっていき、かはっと苦しそうに喘ぐ。さすがに動物として生きる本能そのものは失っていなかったらしい。
(あれでよく死ななかったな、俺……)
 憤りや哀しみなどを通り越して、ただ呆れるばかりだった。あるいは苦笑にも近いかもしれない。首を絞められているのは自分自身なのに。
「なんの抵抗もしないって、それはそれで薄気味悪いもんなんだな……ああ、そうか。あんたは俺に苦しがってほしかったんだな? 助けてって無意味に叫んでやれば、あんたのその狂った頭が少しは満足したか?」
 でも"俺"がこうなのは、あんたのせいだろう? と投げかける。どうせ聞こえはしないけれど。あんたが、その怒りの感情のほんのひと欠片でも愛してくれていたのなら、俺はあんたに助けを求めて泣きすがっただろう。だけど"俺"は言葉はおろか、すべての感情を削ぎ取られて、もはやヒトと呼ぶことすらあやしいほどだ。
「……まぁ、いまさらだよな、そんなの」
 繰り広げられている一方的な暴力行為を俯瞰しながら、俺はふと気になった。
作品名:夢幻堂 作家名:深月