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夢幻堂

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『正確には"記憶の欠片"だがな。だが───、ここまで清廉潔白な欠片は滅多にない。愚かすぎるのにも合点が行く』
 褒めているのかいないのか、よく分からない《柩の番人》の言葉に、カンナはただ黙っているしかなかった。セツリが相手ならば馬鹿にしているだのからかっているだのと反論のひとつでもしたくなるところだが、不思議とこの底なし沼のような闇を抱えた番人の言葉からはからかいも蔑みも感じられなかった。
『少し、面白い。主がこれからどう変化するのか、我は時が来るまで楽しみにしていよう』
「待って、あなたをどこへ置いておけというの?」
 そのまま柩の中へ消えてしまいそうだった《柩の番人》に手を伸ばし──と言っても触れられるわけではなかったのだけれど──、問いかけた。その問いに、番人は至極簡単に答える。
『何処(いずこ)でも』
「……どこでもいいということ? この子の目に触れるところでも?」
『左様。徒に時を延ばすことはできぬが、短くすることもできぬ。我は然るべき時に、然るべき相手に姿を顕す』
 そう言う存在である、と言外にほのめかしていた。カンナは頷き、腕の中の小さな魂にあたたかさを分けるようにさらに優しく抱きしめた。
『また会える日を楽しみにしていよう、夢幻堂店主よ』
 新しき夢幻堂店主、と《柩の番人》が最後に呼ばなかったことを、その存在が目の前から消え失せ、漆黒の柩がテーブルに残されたところで初めて気が付いた。少しは認めてもらえたのだろうかと考える。あの古い存在からすればカンナはひよっこどころか殻もまだ自分で破れないほどのヒナだと思ったことだろう。だからこそカンナの選択も愚かだと言ったのだと、聡いカンナは理解していた。
「後悔なんてしないわ、《柩の番人》。それでこの子が救われたのなら、私はここを継いだ意味があるのだから」
 小さな魂をソファに寝かせ、そう独り言を呟きながらふうっと魂に息を吹きかける。夢幻堂店主の持つ力───"暁の息吹"。
 悪意によって元に戻されることを拒絶していた、消えてしまうほど傷つけられた魂に優しい光がまとう。今度こそ拒絶されずに、小さな魂はその姿を現す。おそらく魂の色と同じであろう二色の瞳はまだ閉ざされ、艶やかな黒髪が閉じた目を少し隠していた。少年とまではまだ呼べないような、まだ庇護されるべき年齢の幼い子供だった。カンナはやっと本来の姿を取り戻し、消滅から少し遠のいた子供の髪を、ヨウが自分にそうしてくれたように何度も何度も優しく撫でた。
(守るから。あなたがここを去るときまで)
 それがたとえすぐだとしても。カンナのその心が聞こえたのか、はたまた撫でる手に力が入ってしまったのか、その子供はむずがるように身体をよじったあと、ぼんやりとその目を開けた。
「目が覚めた?」
 カンナは撫でる手はそのままに、さながら母親のようにそう問いかけていた。
「……こ、こ……?」
「ここは現と夢幻の狭間にある魂の休息所」
「たましい…? おれ、は……だ──、れだ」
「シオン」
 名前のなかった小さな魂を、カンナはごく自然にそう呼んだ。
「シオン?」
「そう、きれいな瞳を持つあなたの名前よ」
「あんたは……」
「私はカンナ。夢幻堂と名付けられたこの休息所の店主」
「てん、しゅ? ……ミセ?」
「そうよ。ようこそ夢幻堂へ。シオン、あなたを心から歓迎するわ。……どうか、穏やかな休息を」
 これが、シオンとして覚えている一番の記憶となった。


 ふ、とカンナの声がそこで途切れた。いつの間にか前のめりで聞いていたシオンは、ぼんやりしていてカンナが次の言葉を発するまで、話が終わったのだということをあまりちゃんと理解できていなかった。
「……これで私の話は終わり。さあ、今度こそ邪魔はしないわ、《柩の番人》。あなたの望むままに」
「カンナ!」
「なに?」
「……っ、なんでも、ない……」
 静かな声に威圧され、シオンは一瞬で言葉を失った。本当は、どうして代償を支払うなんて言ったのかと問いたかった。けれどそんなことは無駄なのだと彼女の声音で知る。なにか言いたいのなら、シオンが自分自身に向き合ってからなのだろう。
『我が預かりし主の真実を返却しよう』
 《柩の番人》はそう言うと、いつの間にか左手に乗せられていた漆黒の柩を掲げ、シオンの目の前へと差し出した。じゃらりと華奢な銀の鎖が硬い音を立て、刻まれていた十字が形を崩す───、と同時にがばりと柩の蓋は口のように大きく開き、夢幻堂のなかに立っていられないほどの風が巻き上った。
「待ってるわ、シオン。この場所で」
 柩へと吸い込まれる風の力に抗えないままシオンが聞いたのはカンナの声だった。優しく、自分を安心させてくれる声。その声がぶわりと目の前を遮る風の音とともに遠くから聞こえる。
「……必ず還ってきてね」
 そう聞こえたのはシオンの幻聴だったのだろうか。心配そうなカンナの声に大丈夫だと返せないまま、シオンはぱかりと空いた柩の奥の闇のなかへと引きずり込まれていった。


 どこまでも続く、永遠の闇。音も光もすべて無に帰す深淵の闇。
 待ち受けるのはただ奈落の底の絶望のみ。
(……そう、だった───)
 俺に残されていたのは、ただ静かに鎮座している死だけで、それは同時に俺自身の存在を否定しているも同義だった。傷しか残らない、ぼろぼろの記憶。骨の髄まで、俺はこれっぽっちも愛されてやいなかった。
 求めて伸ばした手も、ぬくもりを感じることはなかった。俺が生きている間、ただの一度も。……違う、死したあとでさえもきっとそうだったのだろう。
 忘れていた記憶(過去)。忘れることを赦されていた時間。
 救いがひとつもない、残酷で非常で、無惨な俺の姿。俺はそれをもう一度体験して、何を得るんだろう。
(壊れやしないのか?)
 もう一度。
 否───、壊れはしないだろう。二度と。
 そうでなければ目覚めるはずがなかったのだ。死人を抱き、語られぬ真実を秘匿せんとする番人が。
『そろそろよいであろと神が申されたも同然とは思わぬか?』
 《柩の番人》の言葉が蘇る。俺が成長した分だけ、止まった記憶を受けとめる糧となるだろう。どれほど傷を抉り、この身を引きちぎられそうな過去でも、カンナが俺の横にいる限り、俺はきっと壊れはしない。
(……壊れるもんか)
 追憶を抱き、俺は俺へと還っていくのだ。
 そこで、俺の思考はブラックアウトしていく。ごぼごぼと深い深い闇へ沈んでいく。俺は無意識のなかで目を閉じて、まとわりついてくる悪意をただ受け入れた。


「おまえのせいで、わたしはすべてを失ったのよ」
 繰り返し、繰り返し、そう聞かせてきた。己の腹を本当に痛めたのかと疑いたくなるほど、俺を産んで世間的には母と呼ばれるであろうはずの人間は、俺をあらん限り憎んでいた。
 ここで、そんなはずはないだとか、自分が生んだ子を心から憎むことはないなどと言える人間はごく当たり前の常識と愛情を持っていて、このことを到底理解できないだろう。理解する前に、その非常識さに吐き気さえするほどだ───と思うようになったのは、今の俺が幸せだからなのかと、追憶に身を委ねたままのぼんやりとした思考の片隅で考える。
作品名:夢幻堂 作家名:深月