夢幻堂
抱きしめたまま静かに問いかける。色とりどりの宝石や小瓶が所狭しと並べられた戸棚には、不自然なほどの陽光が差し込み、きらきらと光り輝いている。その中で漆黒で塗固めた箱がある。その中央には冷たい輝きを放つ銀の十字架が象られ、幾重もの華奢な鎖でがんじがらめにされている。カンナ(夢幻堂店主)の声を受け、それがゆらりと立ち上がるようにして動いた。瞬間、ぬらぬらと艶めく闇色のマントを目深に被り、窪んだ眼下をぎょろりとカンナに向けた物体が顕れる。
『我に何用か、新しき夢幻堂店主よ』
「この子の過去をすべて封じて。なにも思い出せないように───このまま消えてしまわないように」
これ以上の最善の策をカンナはいま持っていない。ヨウが自分に使ってくれた《淡雪の花びら》は奇蹟に近い神からの授けもの。たとえ夢幻堂店主と言えど、そう手に入るような代物ではない。かと言って、このまま悪意にまみれたままの小さな魂を救う手立ては夢幻堂にはない。ここはただの休息所なのだから。
けれどたったひとつだけ。代償を支払うならば、救える手立てがあることをカンナは知っていた。
(鍵穴のない柩────これが番人)
実際、相見えるのは初めてだった。強力な守りとなる反面、度が過ぎれば修復できないほどの代償を払わなければならなくなる。使う気などさらさらなかった。たったいままでは。
『若い』
「私が相手では不服?」
『其の者が代償を支払うわけではあるまい。主が肩代わりするつもりか』
「そうよ。私はヨウさまじゃない。あの人のようにはできない。だけど、消えそうな魂を黙って見過ごすなら、私がここに留まった意味はないの」
『前店主は主が思うほど立派でもなく、聖人でもない』
「そんなことはないわ!」
『我は真実しか持たぬ。その異論に対する答えは持っておらぬ。……さて、新しき夢幻堂店主よ、主はすべての魂にそうしていくつもりか』
《柩の番人》から発せられる言葉は鋭い刃のようだった。これは試練なのだとカンナは思う。夢幻堂店主としての力量を計る、意志を持つ異質な番人からの。
「私は自分自身の罪を忘れることを赦さない。たとえその罪が浄化されたのだとしても、殺めた人たちのことを忘れることはできない。夢幻堂店主として間違っていたのだとしても、目の前で傷だらけで、自分が傷ついてることも分からない魂を見殺しにするくらいなら、私の存在を代償にしてでも助ける。それがヨウさまじゃない、私の意思」
『若く、愚かではあるが──主は限りなく清廉だな』
少しだけ、フードの奥で表情も見えないはずの番人の顔に笑みが浮かんだような気がした。抱きしめたままの小さな魂は身じろぎすらしない。けれど、だんだんとその輝きが薄れてきているのが感じられる。もう時間はそんなに残されてはいないのだろう。
『主の記憶の一部を預かろう。其の者の過去を封じる代償として。その判断が誤っていたかは我ではなく、主が判断することだ』
「契約成立ということね」
『秘される真実は永遠ではあらず。忘れるでないぞ、新しき夢幻堂店主よ。然るべきときに真実は暴かれ、其の者へと還る。其の者が我に触れたとき、錠は解かれよう』
予言ではなく真実。《柩の番人》は、それ自身が言ったように真実しか持たない。柩に入れるべきは嘘偽りなき過去(記憶)であり、改竄することはできない。然るべきときがいつであるのか、《柩の番人》にもカンナにも分からない。だが、それは必ずいつか来るのだ。抗いたくても、忘れてしまいたくても、ときは容赦なく過ぎ去るのだから。
『其の者をどう留め置くつもりか』
「強制はしないわ。記憶が戻る前にここを去るのなら、代償は私が払うのよ」
『───愚かなまでのその覚悟、受け取ろう』
ぶわりと、《柩の番人》の周りに風が巻き上り、マントを被った番人の手にはいつの間にか鈍色の鎌を右手にしたまま、漆黒の柩を左腕で抱えていた。
鍵穴のついた柩。
それが番人の手によってカンナと小さな魂の目の前に浮かぶ。死神のような《柩の番人》の出で立ちに、カンナは黙ってそれを見つめていた。不安がないと言えば嘘になる。それでも、この選択に後悔はしない。
『其の者を我の前へ』
言われた通りに抱きかかえていた小さな魂を柩の番人の前へと差し出す。見つめた先には表情の分からない、闇色の番人がいる。カンナは小さな魂を残したまま一歩下がる。《柩の番人》はカンナが離れたことを確かめると、ひゅっと大鎌を両手で斜めに構え、右から左へと小さな魂を薙ぎ払った。
鍵穴のついた柩は番人が鎌を薙ぎ払うのと同時に、その蓋が口のようにがばりと開き風がさらに大きくうねり、巻き上る。けれど、引き寄せられるようにして風はあるのに、カンナも小さな魂も引きずり込まれることはなく、ただ薙ぎ払われた鎌の切先に貼り付いた黒い靄のようなものだけが引き寄せられていく。それが、その小さな魂の過去(記憶)なのだ。
変わりに新緑と葡萄のなめらかな色合いが、混ざり合うように魂を取り囲んでいた。澱んだ色ではなく、透き通りそうな美しい色だった。
「……きれいね」
思わず我を忘れて呟いた。なぜ隠さなければならなかったのかと思うほど、美しい色だった。そして、さながら怪物の口のようにぱっかりと空いていた柩の蓋は、小さな魂から吸い取った過去をすべて呑み込み、ぱたりとそれを閉じた。その瞬間から鍵穴は消え失せ、幾重にも絡まった華奢な銀の鎖がその柩をがんじがらめにし、だめ押しとばかりに鎖の十字架が刻まれる。そうしてようやく漆黒の柩は番人の手に静かに納まった。それを見計らっていたかのように、《柩の番人》は静かになった柩を左手に持ちながらカンナを見下ろす。
『罰が下らぬのはただの一度のみ。徒に時を延ばすことは許されぬ。それは神ですらも』
フードの奥のぽっかりと空いた闇から聞こえる声は、カンナに恐怖を与えることはない。それどころか、厳かにすら感じえる。なぜだろうかと頭の片隅で思いながら《柩の番人》を見上げ、頷いた。
「分かってるわ」
『新しき夢幻堂店主、主の過去(記憶)を我に預けよ。契約が果たされぬ場合は主の罪の記憶を貰い受けよう』
それはつまりカンナが自分自身の罪を忘れることを意味する。そして、それは夢幻堂店主である意味すら忘れてしまうかもしれない、危険性の高いリスクでもあった。この魂を強制的に夢幻堂に留まらせないのであれば。
(でも後悔なんてしない)
この小さな魂を助けるための休息は与えても、留まらせるための策は弄しない。代償を自分自身が払うのだとしても、それでいい。それすらも自分のエゴなのかもしれないと思いながら、カンナはふよふよとまだ宙に浮かぶ魂をそっと抱き止めた。鎌で薙ぎ払われた魂はなんともなく、けれど頑なに拒絶していた殻はもうなくなっていた。そのことに少しだけ安堵して、そのまま番人へ問う。
「さあ、どうすればいいの? 同じようにその鎌で私を斬るの?」
『主自身を斬るわけではないがな。では、預かろう』
言うが早いか、《柩の番人》は右手で構えた大鎌を右から左へと同じように薙ぎ払った。抱きしめている小さな魂とは違い、その鎌の先にあるのはきらきらと白銀に輝く欠片だった。
「それが私の記憶?」