夢幻堂
そうしたら、きっと神の御許(みもと)に行けるから。そう囁いて、カンナは弱々しい光をまとう魂を優しく抱いたままソファに身を委ねた。そうしていつもそうするように、ほのかに絶望の黒色をまとう魂にそっと息を吹きかける。夢幻堂店主のみが扱える、数々の宝物たちに頼らない力───"暁の息吹"。そうするだけで魂は夢幻堂にいる間のみ本来の姿を保てるはずであった。それなのに、なにひとつ変わりはしない。今にも消えてしまいそうなほど弱々しい魂のままでそこに在る。戻されまいと抗うなにかがカンナの息吹を阻む。
「……どうして?」
静かな場所で対面して初めて分かる違和感。イキモノに喰われかけ、魂が極限まで弱っているだけなのだと思っていた。"暁の息吹"で元の姿に戻るのだと信じて疑わなかったのに。カンナは腕の中のいまにも消えてしまいそうな魂をそっと見つめる。
(違う)
ほのかに光る小さな魂から、感情はなにひとつ読み取れない。自分が傷ついているのだと言うことさえこの魂は認識できていないのだ。おそらく。自分のように削ぎ落されたわけではなく、生れ落ちた瞬間から与えられなかったかのように、どこまでも限りない無。けれど、かすかに拒絶だけがかろうじてカンナの皮膚を刺激する。それすらもこの魂から発せられた拒絶なのかも疑わしい。どちらにしろ、このままにしておいたら弱っていずれ消えてしまうだろう。ただでさえにイキモノたちに喰われかけて、極限まで弱められてしまっている。
カンナは薄茶色の双眸をわずかに歪め、生きながらにして死んでいたにも等しかったであろう魂を壊れないよう、それでいて力をこめて再び抱きしめる。
「……私の声を聴いて」
つぶさないように、壊れないようにそっと大事に。感じ取れるのは、幼いはずの魂にねっとりとまとわりついた憎悪。庇護されるべき幼子に向けられた、凶器に等しい殺意。愛情のひとかけらすら、この魂には刻まれていない。
「つめたい……あなたはずっとどこにいたの? 寒くて、凍えてしまいそうなのに……苛烈な炎があなたを解放することを拒んでいる」
空っぽな魂から感じ取れるのは、断片的な記憶。喜怒哀楽のない魂からは彼が生前いたであろう空間の温度しか分からなかった。あるわけない、と思いたかった。
「……ヨウさま」
もういない前店主の名前を紡ぐ。自分を救ってくれた恩人。あなたならどうしただろうと心の中で思う。そのことに意味はないと知っているけれど。似ている、とは思わない。自分自身とこの魂が。愛された記憶にはカンナにはあった。だからこそ、守りたいと願って自分自身が犠牲になることすら厭わなかった。愛し、慈しんでくれた優しいひとたちに。ぱたり、と涙が頬を伝って魂に落ちる。無意識に落ちてきた滴にカンナはびっくりして、慌てて涙を拭う。抱きしめた魂を見ればぼんやりとその輪郭を滲ませている。カンナが落とした涙のせいなのか、頑なに拒んでいた、魂を包んでいる悪意の殻が揺らぐ。微妙な違和感を覚えたカンナが息を殺して小さな魂を見れば、その奥で薄ぼんやりと丸いなにかが見える。記憶を辿るまでもなくするりとその名前が口をついて出ていた。
「《女神の宝珠》……?」
たったひとつだけ秘密を隠すことのできる、美しい宝珠。何より大事な秘密が暴かれることのないように。女神を冠する名称からして、悪意に塗れるようなものではないはずなのに、どうしてこの魂から感じ取れるのかカンナには分からない。ただそれがあることによって"暁の息吹"を拒むのなら取り除く以外に選択肢はない。
「ごめんなさい。少しだけ我慢して」
言いながら魂の中へ手を伸ばす。一つでも間違えば間違いなく魂が傷ついてしまうことをカンナは知っていた。そして、一度ついた傷は治癒されることはなく、消滅の道しか辿れないことも。知っていてもなお、本来であれば害をなさないはずの《女神の宝珠》をこの魂から離さなければならなかった。魂を覆っている薄い膜のようなものにそっと触れる。ちりちりと肌を刺激して、侵入者を拒絶する。カンナはそれでも進める手をやめようとはしなかった。助けたい、とただそれだけを願っていた。自分が助けられたように、カンナ自身もだれかを助ける存在でありたいと、彼女自身は無意識に思っている。
カツン、と探る指先になにかが当たった。
(……宝珠?)
冷たく、丸みを帯びている気がする。カンナは慎重にそれを包み込むようにしてゆっくり手のひらに乗せるようにして握る。本来、《女神の宝珠》が悪意にさらされることはないはずだった。なぜ、とカンナはずっと思ったまま《女神の宝珠》を魂の中から取り出す。抵抗があるものかと覚悟をしていたカンナは、意外なほどするりと魂から出てきた《女神の宝珠》をまじまじと見つめ、変わらず弱々しい光をまとう魂へと視線を移した。そして目を瞠る。
「二、色……?」
悪意で濁った紫色。そして頼りなく漂う緑色が魂の中で渦巻いている。二色の色を持つ魂を、カンナははじめて見た。紫の色が何を示すのか、夢幻堂店主であるカンナが知らないわけはない。紫は魔を呼ぶ色としてあまりにも知れ渡りすぎている。カンナはもう一度"暁の息吹"を二つの色を持つ魂に吹きかける。それまでずっと解放されることを拒絶していた魂が姿を変え、艶やかな黒髪を持つ少年へと姿を変える。ソファに横たわったままの少年のその双眸はすでに開かれ、虚無を映した視線がカンナとぶつかる。その色に、カンナは一瞬息を止めた。
こちらを見る瞳は紫───そして新緑を思わせる若葉の色。左右で違う色を持つ眼。
(………これが、イキモノたちが異端だと騒いだ理由)
たったそれだけのことで、とカンナは唇を噛み締める。目の色が左右違うだけでなにがあるというのだろう。けれどイキモノたちだけではなく、この小さな幼子が生きていた現の世でさえも疎んじられていたことは想像に難くない。カンナはほぞを噛んでなにも映し出さない空虚な彼を見つめた。
「……私があなたを守るから。だれからも傷つかないように!」
感情がない、どころではなかった。きれいに飾られた人形のようにそこに座っているだけだった。カンナの叫びもおそらくは聞こえていない。物理的に聞こえていないわけではないのだろう。なにも理解ができないのだ。喜怒哀楽を人からすべて削ぎ落したらこうなるのだという見本を見せられているような、気持ち悪さがカンナを襲う。思わずその少年を頭ごと抱きしめていた。あたたかさのかけらも知らない少年に、自分がヨウとセツリのあたたかさに触れて救われたように、少しでもそれが伝わってほしいと。泣けない彼の代わりというわけではない。けれど、カンナの薄茶色の瞳からは涙が零れていた。ぽたぽたと頬を伝って落ちる涙が、動かない少年の髪に落ちて濡らしていく。
「……《柩の番人》、いるでしょう」