夢幻堂
守られてばかりいたことを、長い間知らずにいた。少しずつ気付きながらも、優しく包み込んでくれているのが心地よかったから、気付かないでいたいと思っていた。だけど、このままでいいはずがない。カンナがシオンの魂を消さないために《柩の番人》に記憶を封じ込めたなら、その代償はカンナに向かうのだろう。それは嫌だとシオンは思う。恩義ではなく、ただ純粋に。
シオンのきらきらと煌めく美しい瞳から逃げるように目を伏せたカンナに、《柩の番人》がふわりと彼女のそばに立つ。冗談を言うわけでも、諌めるわけでもなく、無感情で淡々とした声音で声を降らせた。
『夢幻堂店主よ。そなたが其の者の記憶を、一時でも封じたいと願った気持ちは我も理解する。冷酷非道、残虐なる過去を持つ店主よりも、ある意味では無慈悲なる過去の持ち主であろう』
ある意味では、の意味をカンナは分かっていた。分かっていたから、答えられなかった。自分はほんの一瞬だけでも得られた感情(もの)───それが、シオンには本当にまったくなかったのだ。見上げれば、漆黒のマントを纏う《柩の番人》が無言で問いかけてくる。徒に時を延ばすことはできぬと。カンナはきつく目を閉じて逡巡してから、ゆっくりと薄茶色の双眸を開いた。
本当はまだ迷っている。また消えてしまいそうになるのではないかと不安になる。それでももう隠し通せない。時間制限(タイムリミット)だった。カンナは静かに息を吐いて、ようやくシオンの二色の瞳を見つめた。
「……シオンが来たのは、私が夢幻堂を継いでから、ようやく少し落ち着いたころだったの」
懐かしむように薄茶色の目を細めてカンナはそう話し始めた。
その日はやけに騒がしかった。夢幻堂の中はその嫌なざわめきに浸食されず静かで穏やかなままだったけれど、魂を喰らうイキモノたちが蠢いている"狭間の世界"がいつも以上に何とも言えない不快な感覚をカンナに与えていた。
永らく夢幻堂に滞在していたとはいえ、店主というその責務を継いでからは日が浅い。いまでは支えてくれていた瑛も自分が贈った《虹の羅針盤》とともに夢幻堂を去っている。いまここでどうするべきなのか、カンナは相談する相手もおらず、すべては自分の責任において判断しなければならなかった。
いまカンナが判断しかねているのは、自分の直感を信じて夢幻堂の外に出るかどうか、だ。それが単なる杞憂で済めばいいけれど、もしそれが夢幻堂に辿り着けず餌食になってしまいそうな魂だったら、カンナはなにがなんでも助け出したいと思うのだ。
「私はもう無力な魂じゃない……ヨウさまから店主を継いだんだから」
魂のまま一歩でも"狭間の世界"を彷徨うと言うことはイキモノたちに喰われてしまうことと同義であるとカンナは瑛から教えられた。ならばなぜ同じ魂であるはずの夢幻堂店主はそれに当てはまらないのかと問いかけたカンナに、瑛は少しだけ微笑んで「神が定めたからですよ」とだけ言った。
「だから大丈夫……私はすべてを受けとめると決めたのよ。痛みも苦しみも、私は忘れない」
何を怖れるの、とカンナは自分自身を叱咤して、ゆっくりとソファから立ち上がった。光なんてあるはずもない"狭間の世界"だけれど、夢幻堂にはなぜかあたたかな陽光が入り込んでいる。そういえばその理由を問うのを忘れていたとカンナは場違いなことを考え、所狭しと瓶やら宝石やらが置かれた窓を見やる。そこには不穏な空気など微塵も感じられない。けれど夢幻堂店主としてのカンナの直感だけが違うと叫んでいる。薄茶色の瞳を軽く閉じ、息を吐く。
(あなたから継いだこの場所を、私は守りたい)
ゆっくりと目を開け、いつもはお客が開ける扉の前に立つ。ドアノブを回すと、カチャリと開く音とともにチリンと涼やかな音が鳴った。
途端───、びょう! と嵐のような生温い風がカンナの頬を叩き付け、瞳と同じ薄茶色の髪をめちゃくちゃに巻き上げた。視界をも妨げる風に交じり、不快な蠢きを見つけたカンナは後ろ手に夢幻堂の扉を閉めるとギリッとそれを睨みつける。
「……あれは」
カンナの目に一瞬だけ淡い光が見えた。今にも消えてしまいそうなか細い光。それがほとんど消滅してしまいそうに小さくなってしまった魂だと、カンナは瞬間的に理解して、無意識に走り出す。そして鋭く叫んだ。
「放しなさい!」
けれど姿のないイキモノたちはせせら笑うように蠢き、ざわめく。きわめて不快に。
────異端を我が身で飼うというのか、新しき夢幻堂店主
────ああ、憐れ。憐れよのう
────魔を呼ぶ異端は店主より我らを好もうぞ
「黙りなさい。魂を喰らいつくし、消滅しか導かない哀れなイキモノたち」
一歩、イキモノたちに近づく。彼らは──と表していいのかどうなのかは分からないが──カンナに害をなそうとはしない。否、近付けないのだとカンナは分かる。神が定めたというのは、神の加護があるということなのかと肌で感じた。それでもイキモノたちは弱った魂を放そうとはしない。びょうびょうと風は激しくうねり、カンナが近づくのを少しでも邪魔しようとする。それに混ざって、不快な声は耳元で騒ぐ。
────異端を望むと言うか、夢幻堂の店主
────愚かな
「あなたたちに愚かと言われる筋合いはないわ!」
ほのかに緑の光を放つ魂に向かって一歩ずつ足を踏み出す。怒り狂ったイキモノたちのぎゅうぎゅうと身体後と締め上げる感覚と、もはや息をするのも苦しいほどの風がカンナを襲い、責め立てる。
「傷ついた魂を異端呼ばわりすることはゆるさない」
ゆらりと立ち上がる。小さな魂からは悲鳴すら聞こえない。自分が傷ついていることにすら気づけない幼い魂が目の前にいる。
すっと頭の中がクリアになる。なにも聞こえず、なにも感じない。淡く光る魂しか見えない。身体を打つ風もイキモノたちの怒号も、小さき魂の前に吹き飛んだ。自分がどうやってその魂の傍に近づけたのか、正直に言って記憶は曖昧だ。気づけばカンナはその魂をそっと抱きしめていた。
「……あなたも還る器を失くしてしまったのね……」
呟いた瞬間、ごうっという音が戻ってくる。それと同時に、耳障りでしかないイキモノたちの声が届いた。
────不吉がその身に降りかかろうぞ!
────なんと憐れな!
「私はあなたたちの言葉に耳など貸さない」
恐ろしいほど冷静だった。自分がこんなにも感情的じゃなくいられるなんて知らなかった。魂を優しく抱いたまま、急ぐことなくイキモノたちに背を向け、夢幻堂に向かって歩き出す。彼らは喰らえなかった魂を取り戻そうとざわざわと蠢いていたが、夢幻堂店主に触れることはできない。神の力は太陽の光で、彼らにとってそれは自分自身を滅ぼす大敵であることを本能的に知っている。
(すべての痛みを受けとめると……そう、約束したのだから)
そう、強く思ってカンナは夢幻堂の扉を開いた。
───チリン。
扉が閉まるとともに涼やかな鈴の音が小さく鳴った。いつもならお客が入ってくるときに鳴るものだ。こうして誰かを助けにいくことがあるなんて思いもしなかった。けれど、後悔なんてするわけもない。
「いらっしゃい、小さな魂さん。ここでゆっくり休むといいわ」