夢幻堂
その言葉だけがするりと口から出ていた。
「え?」
「前にも言っただろ。俺はカンナに救われた。カンナがそうやって俺を助けてくれたから、俺はいまここにいる。難しいことは俺には分からないし、カンナの傷を理解できるほど俺は頭よくないけどさ、だけど俺はずっとカンナに側にいて、夢幻堂に辿り着いた魂が救われてったのを見てる。前の店主だったヨウじゃなくて、カンナがそうしてきたんだ」
だんだん自分がなにを言っているのか分からなくなってくる。だけど、シオンはカンナに伝えたかった。ヨウの面影を追っている彼女は、きっとそのことに気づいていないだろうと思っていたから。まっすぐにカンナを見つめたシオンに、驚いた顔をしていたカンナは、やがて小さく微笑んだ。そして囁くような声で「ありがとう」と言ってくれたのを、シオンは満足そうに受け取った。
と、ここで本題から著しくずれていることに気づく。こんなにも異質なオーラを放つ《柩の番人》がいるというのにだ。喋らないってのは随分と気配を消すことができるもんなんだな、となかばシオンは感心して、ふと横を見た。そしていまさらながらに、真っ黒い存在に問いかけてみる。
「なぁ、そもそも《柩の番人》ってなんなんだ?」
『我を目の前にしてよう言うたもんだな』
だんまりを決め込んでいるものだから応えなんてないものだと思っていたら、存外すぐに答えが返ってきた。
「知らないんだから仕方ないだろ。文句いうな」
『ふむ……一理あるな。暴言だが許そう』
「………何様なんだ」
いまいち会話が成立しないような嫌な予感がする。そして今度はカンナがだんまりを決め込んだようだ。会話に割って入ってこないところを見ると、このやりとりを興味深く静観してみるか──ということなのかどうかはシオンには分からない。
『我は番人だ』
「《柩の番人》って言うくらいなんだから、それくらい俺だって分かる」
『そう答えを急くな。では何の番人なのか、主には分かるか?』
「なにを? 俺の記憶を封じているなら、その番人なんじゃないのか?」
『それでは真の答えとは言えまい。夢幻堂店主よ、其の者に何も教えておらぬのか?』
「必要のないことを、わざわざ知る必要はないでしょう? なかにはシオンを傷つけるものもあるわ。……少し前ならあなたもそうだった」
話を振られたカンナは、さっきシオンと話していた時と同じ人物とは思えないほど冷たい声で返した。《柩の番人》が持っているシオンの記憶が、よほど知られなくないものなのだろうと思う。それはきっとシオンを守るためなのだ。それが分からぬほど、シオンはもう幼くない。
『姿だけではなく中身も相も変わらずなのだな、夢幻堂店主。頑固なのは前店主に似たか』
「私はヨウ様のように優しくもなければ、立派でもないわ」
『それは前店主のことか? あやつが優しい? 立派? むしろ逆にしか思えぬが。非情で冷酷で、自らの欲望を叶えるがためだけに動いておった』
「そんなこと───」
ない、と言い切れなかった。いままでならば、なんの疑いもなく違うと言えたはずだったのに。
どうして、なんて理由はもう知っている。否、知ってしまった。セツリが残した言葉によって。瑛が隠し持っている記憶があることを。そしてそれが、決して立派でも優しくもなく、とても冷たく悲しいものであることを、断片的でも知ってしまったから。
『……夢幻堂店主よ。主も少々成長したようだ』
答えなかったカンナに、《柩の番人》は感慨深げにそう言った。
「なにも言わないわ。いまはまだ。いずれ、あなたに預けられたヨウ様の記憶を開かなければならないときが来る。それがどんな過去でも、私は逃げたりしない」
『……ほう?』
愉しそうに、少しだけ挑戦するように《柩の番人》は言った。けれど、それ以上はなにも言おうとはしなかった。
『"柩"は死人(しびと)を守るもの。ならば番人である我が何を守っているのか分かるであろう?』
改めてシオンに向き直った(と思われる)《柩の番人》は、そう聞いた。そんな謎掛けみたいな言葉で言われても分かるわけない。と内心思ったのを見透かしたのか、《柩の番人》はフード越しにシオンを見た。実際顔は見えず、フードの中にあるのは闇だけで、不気味である。
『死人は物を語らぬ。それは絶対的な真実であり、覆すことは不可能な理。うつし世において、神ですら力及ぼせぬ場。人が俗に言うところの言葉に表せば、"当たり前"であるということ』
「だから?」
まどろっこしい、と言う言葉を何とか呑み込んで低い声で返す。それを意にも返さず《柩の番人》は淡々と続けた。
『我は真実を封じ込め、その番人を務める者。死者であろうと生者であろうと。なれば、我の言う"柩"とは柩そのものではないと分かろう?』
ここで思考の回線がキレた。というか考えることそのものをシオンは放棄して、があっと怒鳴る。
「俺はカンナみたいに頭がよくないんだ。そんな回りくどい説明で分かるか!」
『ふむ……これでも随分と噛み砕いて説明しているつもりだが? それでも分からぬと? 夢幻堂店主よ、我はこれ以上分かりやすく其の者に説明することは不可能なようだ』
あれで分かりやすく説明したつもりなのか。とはシオンは言わなかった。かろうじて。その心情を汲み取ってくれたのか、いつもよりも少し優しい声色でカンナが擁護する。
「《柩の番人》は古くからある存在だから、理解するのには時間がかかるわ。それはしかたがないこと。ここでいう"柩"は、現世でいうところの柩とは意味が違うということよ。単純に、柩の中にあるのはなにかということ」
あえて答えを与えないのは、自分自身で見つけなければならないことだと言うことか。そう考えて、シオンは一旦放棄した思考をもう一度手繰り寄せ、じっと考え込んだ。
沈黙が落ちる。わずかな衣擦れの音さえも大きく響く夢幻堂で、シオンとカンナの息づかいだけが聞こえている。圧倒的な存在感を放っていた《柩の番人》は、どうやったのかほとんど気配を消して佇んでいる。どうやったらあんなに不気味な黒い存在の気配を消すことができるのか、若干気になるところではあるが、いまはそれを考えるべきときではない。雑念を振り払いながら、はぁっとため息をついたシオンが、葡萄と新緑の瞳をカンナに向けた。
「それが単純に"柩"としての役割としてじゃないのは分かった。俺の記憶を封じ込めてたんだったら、知られたくないことを《柩の番人》に預けるってことか?」
「間違いではないけれど、正解じゃないわ。《柩の番人》が言っていたように、真実を閉じ込め、守り抜くのが役目」
そこで消えていた気配が復活する。もちろん黒ずくめの存在《柩の番人》に他ならない。
『死人は物を語らぬ』
もう一度言う。シオンは黙ったまま《柩の番人》を見た。
『それゆえに、真実は秘匿され、守られ続ける』
それは至極当然な論理だ。喋ることのない躯が秘した真実など知りえない。形として遺していない限り、想いは死とともに葬られる運命にある。
『我は骸をただ守るためだけに在らず。我が秘匿した真実とはつまり、過ぎ去った真実を亡きものとすることと同義である』
シオンは逡巡した。