夢幻堂
シオンはぱっと顔を上げ彼を見る。カンナは答えようとして、開きかけた口を閉じる。彼が、なにか喋ろうとしているのが分かったからだった。
「よいことやめでたいことの起こる前ぶれのことじゃ。お前さんがたにはワシの加護がある。信じるんじゃ」
「でも、それじゃあ」
「よいか、もう一度だけ言うぞ。嘆くことは何もないんじゃ」
「《|吉兆の豆達磨《あなた》》が消えても?」
「当たり前じゃ。人もいつかは死ぬじゃろう。それはワシらとて同じこと。朽ちることもあれば壊れることもあろう。運良くワシは長い間生き延びて依り代となってだけのことよ。すべては必然だったのやもしれん。偶然が重なったのやも、はたまた奇蹟だったのやもしれぬ。じゃが、そんなことはもはやどうでもよいのじゃ。"吉兆"の名がつくワシに目を入れたお前さんたちが喜ぶことはあれど、哀しむことは何もありゃせん。さぁ、笑うのじゃ。ワシは喜ぶ顔を見るのが好きじゃからの」
待つことの難しさとつらさを、いっさい見せることはなく。忘れ去られ、振り向いてもらえない悲しさを微塵も感じさせることはなく、《吉兆の豆達磨》はどこまでも優しくそう言った。
「笑え、って……そんな風にできるものじゃないだろ」
「ワシは神に感謝こそすれど、消えることを哀しみはせんよ。見向きもされなんだワシがここへ来られたのもまた神の采配であろう? それならばなぜ哀しむことがある? ワシは"吉兆"の名の通り、ワシ自身もまた幸せの道に来られたのじゃ」
「なんでだ? どうしてそんな風に思える? 忘れ去られて、光も射さない場所に置き去りにされて壊れたのに、どうしてだ?」
「さぁてな……ワシには分からぬよ」
今度は楽しげな声だった。けれど、もう彼の姿は下半分が原型を留めてはいない。必死になってシオンはぼろぼろと砂と化していく《吉兆の豆達磨》の身体を集めた。
ぽたり、と透明な滴が落ちる。それを見て、カンナ自身も視界がぼやけるのを感じる。
「あなたは───、辛さも苦しみも知らなかったわけじゃない。知っていて、それでも待つことを選んだ。……あなたを造ったひとの魂を継いで」
震える声で、そっとシオンの手を外側から包み込みながらカンナが言う。変わらず入り込んでくるやわらかな陽光が、なぜか崩れ落ちていく《吉兆の豆達磨》の姿を輝かせる。
「ワシには分からぬと言ったであろう? ほれほれ、笑うのじゃ。嬢さんも若いのも。笑う門には福来るじゃ。ワシは笑えんがの」
ほっほっほと最期だと言うのに楽しそうに笑っている。つられるようにして、シオンもカンナも泣き笑いを浮かべた。
「変な達磨」
「ほっほ。よいよい、よい笑顔じゃ。ワシは嬉しいぞ、嬉しい───」
かろうじてまだ残っている片目で二人の笑顔を見る。まだ見えているうちにと、カンナは心から微笑む。
「ありがとう。最期にこの場所を選んでくれて。あなたの辿る途が"吉兆"であるよう、祈っているわ」
ああ、ああ、それはまこと嬉しいことじゃの、と囁きが聞こえたと同時に、《吉兆の豆達磨》の姿は完全になくなり、さらさらとした砂金のようなものも次々と消えていく。
"狭間の世界"には何も残らない。何も残せない。そこに居た痕跡も、残り香も、なにもかも。それがこの世界の掟であり、理。残せるのは、ただ記憶のみ。
「あげるばっかで、自分にはいいことあったんかな……」
呟いて、するりと黒猫姿へと変化する。滲んだ涙を見られたくなかったのだ。きっと彼女にはバレているんだろうけれど。だって、カンナはなにも言わずにシオンの頭を優しく撫でるから。
「大丈夫よ。あの豆さんなら、"情けは人の為ならず"って言うはずだわ」
大丈夫。きっとその優しさは返ってくる。永い年月をかけたとしても、いつかは。子守唄を歌うように何度も何度も撫でるカンナの手に、シオンは美しい新緑と葡萄の瞳を《吉兆の豆達磨》がちょこんと座っていた場所に向け、しばらくの間まどろんだ。
心に入り込んだ淋しさを埋めるように。
さぁ、笑うのじゃ。
嘆くことなど、なにもありゃせんよ。
あたたかな春の陽射しのように優しく、あやすような《吉兆の達磨》の声が、最後の残り香が消える瞬間に聴こえた気がした。