夢幻堂
番外編 夢の布石
冷たい。寒い。苦しい。熱い。
皮膚が灼ける。嫌な臭いが鼻につく。
(た す け て)
本能的な恐怖。それを恐怖と知らなくとも、魂が叫んでいる。"怖い"と。けれど、だれも救ってなんかくれないことも、どこかで分かっていた。泣き叫んでも、声を張り上げても、苦しんでも。自分はただの置物のように放っておかれたのだから。
「お…かぁ、さ……」
乾ききった喉から発せられた言葉はだれにも聞かれることもなく、ただ小さな幼子は絶望を知る。……そんな感情を、本来ならば知るはずがないのに。
撫でて、笑いかけて、抱きしめて。
ほんのひとかけらでいいから。
小さな囁き声でもいいから、愛されていると信じさせて。
望まなくても得られるはずの温かな愛情が、こんなにもささやかな望みは、けれど叶えられることはない。
苦しい、苦しい、くるしい───……タスケテ……
悲鳴は虚空に消え去る。最期まで、顧みられることはなく。
ぼろぼろに傷つき切り裂かれた魂だけが残り、漂う。
(───俺、は…………た、のか)
じゃあ、と逡巡する。
俺がここに来た意味は。
地獄でも天国でもなく、儚い狭間の世のこの休息所に辿り着いた、その意味は?
分からない。なにもかもが、靄がかかって見えない。どろどろとした闇の中を彷徨っている気がする。無意識にまた"助けて"と叫びそうになる。それがふっと消えたのは、求めていた温もりを感じたからだった。
はっとして目を開けると、心配そうな少女の薄茶色の双眸が目の前にある。そのことにシオンはひどくほっとしていることに気づいた。欲しかったぬくもりはここにある。いつの間にか辿りついていた夢幻堂に。
「どうしたの?」
優しい声が耳朶をくすぐる。穏やかな沈黙の中のまどろみを壊さない響き。心地よくて、ずっと聴いていたいと思わせる。
「シオン?」
返事のないシオンに、魂の休息所である"夢幻堂"の店主カンナが黒猫姿のシオンの頭を撫でる。
「……なんでもない」
「でもうなされてたでしょ?」
ああだから全身が緊張してるのかと合点がいく。そして上げかけた頭を前足に乗せてため息をついた。
「少し、嫌な夢を見ただけだ……でももう大丈夫だ」
お前がそれを救ってくれたから、とは気恥ずかしいから言わない。だからもう一度新緑と葡萄の二色の瞳を閉じた。
「また寝るの?」
少し不満そうな彼女の声。それに少しだけ笑って、ごろりと丸くなった。
次はきっとおだやかでやさしい夢を見られるだろう。
(お前がそばにいるって、分かってるから)
背中だけをカンナにくっつけて、シオンはまたとろとろと微睡みの世界へと旅立った。