夢幻堂
即答だった。願いごとなんてないのかもしれないと思っていたカンナは少なからず驚いて、思わず口を挟んでいた。
「あるならシオンが願えばいいのよ。私はべつに構わないの」
「どちらかの願いごとなどとは言うておらぬじゃろうに。二人がそれぞれ願えばよかろう。それを受けとめるくらいの度量はワシにも残っておろうて」
ともに譲り合おうとしている二人に苦笑を漏らし、《吉兆の豆達磨》は優しく諭す。
「まるで俺の願いごとが分かってるように言うんだな。俺のは願いと言うより誓いだ。それでも?」
「ならばその誓いが破れぬよう、守ろうぞ」
「シオンの誓いって?」
そこまできっぱりと言うのなら、とても明確なのだろう。そう思って聞く。シオンは少しだけためらったあと、カンナをまっすぐ見た。
「……カンナのそばにいることだよ。ずっと、俺に残された時間すべて。ついでに言えば却下は認めないから。俺は俺の意志でそう決めた。……俺のたったひとつの願いごと、だ」
薄茶色の瞳が開かれる。カンナにとっては予想の範疇をはるかに超える願いごとだった。願いの内訳に、自分が入っているなんて。いつものようにからかっているのかと喉元まで声が出かかって、けれど寸でのところで止まる。きらきらと輝く、春の緑と陽に当たった藤のような二色の美しい瞳が、怖いほどに真剣だったから。カンナはまっすぐに向けられた視線から逃れられず、自分よりもいつの間にか大きくなっていた彼を見つめる。
いつもは黒猫姿でひょうひょうとしているシオン。心と魂にひどく傷を負って夢幻堂へ辿りついたことを、カンナは昨日のことのように覚えている。あたたかな陽光がこの場所には差していたというのに、小さな魂からは絶望を凌駕した闇しかなかったのに。
(いつの間に)
こんな風に成長していたのだろう。無意識に手を伸ばして、じっと動かないままのシオンの黒髪にそっと触れ、黒猫姿のときと同じように撫でてみる。……自分のほうが背が低くて、若干背伸びしながらだったけれど。シオンはされるがまま撫でられて、ほっとしたようにかすかに微笑った、気がした。
常に漂っている穏やかで優しい夢幻堂の空気が、しばしの間沈黙に落ちた空間を埋める。その空気を壊さないまま、《吉兆の豆達磨》は厳かに声を発する。
「二つの願い、しかと受けとった。二人とも、ワシに目を入れるのじゃ。両目にな」
「両目? 片目じゃなくて?」
「ワシはもう現世には在らぬ。現の世の理では非ぬ。じゃからワシがいまそう決めた。両の目を入れることで、お前さんがたの願いは必ず果たされようぞ。この《吉兆の豆達磨》の名にかけて、約束じゃ」
さっきまでとはまとう雰囲気が少し違っていると感じる。どうしていきなりそんなことを言い始めたのか───否、どうして叶うかも分からないはずの願いを約束できたのか。
(意味を、訊いてもいいけれど。そんな必要はない気がするのはなぜなのかしら。叶うと、信じていたいから?)
そうなのかもしれない、とひとりごちる。約束すると言ってくれていることに水を差すのは野暮だ。多分、きっと。だからカンナは微笑んで、所狭しと並べられた貴石や小瓶たちが並んだ戸棚から墨と筆を取り出して答えた。
「分かった。じゃあ私は右目を、シオンは左目を入れるわね」
「ああ、いいけど。右目がいいのか?」
「どっちでもいいけど、何となく。なに、右がいいの?」
「いや? 俺もどっちでもいい。書いたら筆貸して」
硯を置いて、墨をすりはじめたカンナを見ながら言った。それはともかく、なんで墨も硯も筆も全部揃ってんだ、とシオンは若干問いかけたくなる。色んなものが集まる夢幻堂は、不思議で稀な宝物たちで埋もれているのを見慣れているからか、なんというかごく普通で当たり前にありそうなものを見ることに違和感を覚える。
「こんなものかな。……じゃあ書くわね、豆さん」
「願いごとを心の中で唱えながら書くんじゃぞ」
「ええ、分かってるわ」
そんなカンナに続いて、シオンも同じように左目に筆で大きく目を入れたのだった。その結果、几帳面で真面目な印象を持たせるまんまるの黒い右目と、失敗を恐れない豪快かつ枠をはみ出そうなほど大胆な左目という、何ともバランスの悪い達磨が誕生したのであった。
直後。
はっと《吉兆の豆達磨》がかたかたと身体を震わせる。
「……そうか、そうじゃったか……ああ、ワシもまた願っていたのじゃな。そしてやはり願いは果たされよう。必ずじゃ。ああ、ああ。まこと嬉しいのう……」
《吉兆の豆達磨》が唐突にほろほろと墨で書いた両目から涙をこぼしたのを、カンナとシオンはぎょっとして見つめた。
「なに、言って───」
シオンの言葉は最後までは続かなかった。なぜなら、差し込む陽光に反射して一瞬きらりと黄金に《吉兆の豆達磨》の姿が光る。その瞬間、その朱い輪郭が不意にぼやけた。
「どうして!」
叫んだのはカンナだ。なにもかもが予想外な豆達磨。はじめから魂ではなく、器ごと"狭間の世界"にある夢幻堂に辿りついた、希有な存在。あまりにも能天気に笑うから、気づかなかった。まさか、願いが叶った瞬間に消えてしまうなんて。
「カンナ、どうしてこんなことになってんだ!」
「願いが……叶ったの? あなたが望んでいたことが?」
シオンの問いかけには答えられず、かわりに満足げに佇んでいる《吉兆の豆達磨》を見つめた。その間もさらさらと、砂時計の砂が落ちていくように、小さな姿は形を喪っていく。
「《吉兆の豆達磨》! おまえが消えたら意味がない!」
静かに問いかけたカンナの横で、怒った口調で《吉兆の豆達磨》の身体を守るように両手でその姿を包み込んでいるシオンがいる。
「ワシはとうに朽ちておったのじゃよ。お前さんが嘆くことは何もない。ただ待っていたかったのじゃ。いつか誰かがワシを思い出してくれることを、な。そうしたら、ワシの目も黒くなったことじゃろう。そして、きっとそやつは幸せになるだろうと……まこと楽しみにしておったのじゃ」
けれど、いつのまにやら朽ちてしもうていたようじゃ、と《吉兆の豆達磨》は言った。その響きはどこか淋しそうでもあり、どうしてか弾んでいるようでもある。そして、そこまで聞いてカンナはそう、と呟いた。
「……あなたは"|九十九神《つくもがみ》"となったのね。永い年月をかけて。だからここへ来ることができた……もともとに魂がなくても、九十九神ならここへ来られる。朽ちるほど長く生きたあなたは神の依り代となったから」
それは彼にとって幸せなのかどうかは、カンナには分からない。見つけてほしいと望んでいたはずだった。そうじゃなかったら、朽ちるまで待ちはしない。神の依り代となれるまで佇んでいないだろう。
「嬢さんが言うならそうなんじゃろうなぁ。ワシにはトンと分からぬが」
「……ごめんなさい。分かっても、あなたを消さないでいられる方法が私には分からないの」
カンナが小さく肩を震わせる。シオンはうっすらと浮かんだ涙を見られなくないのか、《吉兆の豆達磨》の姿を包み込んだまま俯いていた。
「のう、嬢さん、若いの。吉兆の意味を知っておるか?」
「え?」