夢幻堂
「けどさ、《吉兆の豆達磨》って呼びづらくないか?」
どっかりとソファーに座り、ずずずと熱い紅茶をすすっていたシオンが机の上にちょこんと乗っかっている達磨を見ながら言った。
「……縁起物、って私が言った言葉を聞いてなかったの? 邪険にすると幸せが逃げちゃうわよ」
「そうじゃ! ……と同意したいところじゃが、まぁ若いのが言ったこともよう分かる。ま、ワシとしては認めたくないことじゃが……ワシは名前の通り小さいからの、特別に"豆さん"と呼ぶのを許してやるわい」
「豆?」
「イントネーションが違っとるわ! 語尾を上げるな語尾をっ! それじゃあ食べる"お豆さん"じゃろうが!」
イントネーションなんてどこで覚えたんだ、とカンナとシオンは同時に思う。達磨の風貌を裏切り、意外や意外イマドキの達磨なのかもしれない。
(なんだイマドキの達磨って。達磨にイマドキもなにもあるかっての)
「豆さん……ずいぶん可愛らしい名前だけど、いいの?」
「よい、よい。嬢さんはずいぶんと優しいの。若いのは生意気じゃが、まあよい。なんせ、久方ぶりにワシの姿を見てくれたからの」
その言葉にぴたりと動きが止まる。カンナはある程度気づいていて、確信が持てなかっただけだったけれど。
もとはとても鮮やかであっただろう達磨の朱色はところどころ色がはげ、木で造られている身体には小さな傷と亀裂が無数にあり、全体的にどこか煤けていた。ただ古いだけではない。もうずっと、人の目に触れていない姿。そして、両方の目は黒く染まっておらず、白いままだ。
忘れ去られ、置き去りにされた、小さな小さな朱い達磨。それを思って胸が痛む。わずかに変えたカンナの表情を見逃さなかった豆達磨は、ふっとやわらかな声音で言った。
「嬢さんや、心を痛めるでない。ワシは傷ついてなんぞおらんよ。ワシらのような"置物"は待つのが仕事じゃ。いつの日か、すっかり忘れられて倉庫の奥底にしまわれてしもうたとしてもな。ワシはまた拾い上げてもらうのを待つだけじゃ」
そうすることが、どんなに難しいことかカンナもシオンも知っていた。ただ時が過ぎるのを待つことの苦しさを。忘れ去られることの悲しさも。それは人であるゆえの性なのか。
「勝手な人の行動をうらんだりもしないのか? そんなにぼろぼろになるまで思い出してもらえなくても?」
シオンが少しだけ声を荒げて問う。封じられた過去の記憶の断片か、はたまた魂に刻み込まれていた痛みからなのか。明るい光がどこからか入ってくる夢幻堂の中で、《吉兆の豆達磨》は「そうじゃよ」とあやすように答えた。ただ、それだけだった。
「ふむ。ここは魂の休息所と言うておったな。休んだ者はどこへ行くのじゃ?」
ふと、朱い身体をかたかたと動かして周りを見る。どこへ、の意味を本当は分かって聞いているのではないかとカンナは思い、その考えを少し修正する。
「現に戻ることもあれば、高い空へ行くこともあるわ。この場所は"狭間の世界"、夢と現のちょうど間にある、魂が彷徨う場所だから」
カンナの答えに《吉兆の豆達磨》は少しだけ黙って考え込んだ(ように見えた)。机の上に用意されたお茶は三つ。けれど彼がそれを飲むことはない。どうせ飲めないからと言った豆達磨に、カンナはそれでもときちんと三つ分のお茶を用意したのだった。それは夢幻堂店主として、お客を迎えるための儀式だ。ふよんと漂う白い湯気が豆達磨の輪郭を少しだけゆらんと揺らす。
「……還る者もおるんじゃな。そうじゃな。こんなにもあたたかい場所じゃからな、現に還りたいと器があるなら思うじゃろうて。うむうむ、それは至極よいことじゃ」
しきりに何度も頷いて、満足げに言う。喋っていると毒気を抜かれると言うか、穏やかな気分になれると言うか、不思議だ。とシオンは思って目の前の置物をじっと眺める。
「………さすがエンギモノ?」
「なに、シオン? どうしたの? じっと豆さん見つめて」
ずるっとうっかり手にした紅茶を落としそうになる。早い話が脱力しただけだが。
「呼ぶのか、それ……」
「だってそう呼んでいいって言ってくれたじゃない。呼びづらいって言ったのシオンでしょ?」
そりゃそうだけど、とごにょごにょ反論してみる。《吉兆の豆達磨》はかたかたと身体を揺らして笑った。ふんわり漂う紅茶とお菓子の香りが、光差す夢幻堂をさらに穏やかなものにさせていた。
「なんじゃ若いの、わがままじゃのう。まあ、好きに呼ぶがよい。おお、そうじゃそうじゃ、嬢さんや」
「?」
「願いごとはないか? 若いのでもよいぞ。お前さんがた二人のでもよいがな」
提案は唐突で、二人は面食らう。そんな二人の様子はどこ吹く風と言わんばかりに、《吉兆の豆達磨》は楽しそうに続けた。
「ワシは達磨じゃ。豆のように小さくとも、達磨は達磨。願いを叶えるための縁起物として造られたんじゃよ。ならば、目を入れ、その願いを守ることこそワシの役目。じゃが、ご覧の通りワシの目は白いままじゃ。せめても役目を果たさねば、達磨としての立つ瀬がなくてのう」
造ってもろうた人にのう、と小さく付け加える。その言葉は楽しそうではあったけれど、やはりどこか淋しそうで。カンナとシオンは同時に黙る。胸の痛みがどうしてか分かって、かける言葉が見つからない。
「てなわけでじゃ。ほれほれ、願いごとじゃ、願いごと。なんかあるじゃろう」
軽いノリは気を遣わせないようにとの配慮なのか、それとも単純にそう言う性なのかいまいちよく分からない。若干突っ込みづらいと思いながらシオンはカンナを見た。その視線に気づいたカンナが聞いた。
「願いごと、シオンはある?」
「………カンナは?」
たっぷり間を空けて、考え込んでからシオンは答えずに返した。それに対してどうしてとは聞かず、カンナは即座に答える。
「私? 私は───、ないわ」
「嘘をついてはいかんぞ、嬢さんや? あるじゃろう? どんな些細な願いごとでもいいんじゃよ。ふと思ったことでいいんじゃ」
達磨は心の機微に聡く造られているのだろうか、なんてことをシオンはぼんやり考える。図星だったのだろうと思ったのは、《吉兆の豆達磨》の言葉にカンナの視線が夢幻堂の中をさまよったからだ。シオンもまた、その理由を聞かなかった。彼もまた彼女が答えるのを待った。願いは強制されるものではなく、自分自身が願っていることを思い描くのだ。だから待つ。待つのは慣れていると言いたげに───実際待ち続けていたのだから間違いない───彼女が答えを出すのを。
「…………それなら。もう少しだけ、このままで」
小さく、落ちた沈黙をそっと破るようにして言った。ささやかな、けれどもカンナにとってはとても大切で大事な願いごと。その意味は、きっとシオンには分からないに違いない。カンナ自身も、店主になる前はきっと思わなかった。
このままでいる時間。ここから去るまでの時間を、あと少しだけ。
《吉兆の豆達磨》がその願いに込められた意味を汲んでくれたのかどうかは分からなかった。彼はカンナの願いごとを聞いてから、今度はソファーに座って冷め加減のお茶をすすっているシオンに声をかける。
「若いのは何かあるか?」
「ある。けど、カンナの願いごとでいいよ」