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夢幻堂

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 助け舟を出したのはセツリだ。というよりも、彼女の心の機微を正確に把握できたのがセツリだっただけだ。シオンはただ本心を言っただけで、その言葉がカンナを動揺させるものだとは思っていなかっただろう。予想外に彼女を落ち込ませてしまったことを後悔して、セツリは無理矢理に話題を変える。
「ま、答えのないことばっか言い合ってても仕方ねぇさ。それよりカンナ、せっかく俺が《淡雪の花びら》持ってきたんだから大事に使えよ」
 カンナはセツリがわざと話題を逸らせたことを気づいた上で、指差されたものに視線をうつした。自分の手の中で静かに鎮座している《淡雪の花びら》だ。そしてふと疑問に思う。この世界を神の代わりに渡り歩く《夢の渡り人》でもあるセツリは、滅多に夢幻堂に訪れることはなかった。瑛がいたころでも、ふらりとなにかのついでに寄るだけで、わざわざ夢幻堂店主のために動くことはない。最初こそなにも思わなかったけれど、考えてみれば不自然だ。
(……と思うのは、私がヨウ様から夢幻堂店主としての記憶を継いだから?)
 夢幻堂店主を瑛から引き継ぐと決めたとき、カンナは店主として知りえなければならない記憶を継いでいる。この"狭間の世界"のこと、夢幻堂店主のなすべきこと、忘れてはならないこと───、すべて夢幻堂に関わる事柄に対しての関係性だ。その中には断片的でよく分からない記憶もときどき混じっていたことを、カンナは覚えている。それらはときにパズルのピースのように合わさり、真実を浮かび上がらせることもある。
「………カンナ? 黙り込んでどうしたんだ?」
 心配そうな声に顔を上げれば、美しい新緑と葡萄の瞳が自分を捉えていた。どうやら無意識のうちに深く考え込んでいたらしい。なんでもないと言う代わりに小さく微笑んで首を横に振ると、どっかりとソファーに座り込んでいるセツリを見る。
「セツリさん、どうしてこれをわざわざ私に届けたの?」
「べつに特別な理由なんてないぜ。ただふと思いついたんだ。それを手にしたときに」
「うそよ。だって《淡雪の花びら》は滅多なことでは手にすることもできないのよ。取りに行こうとでもしない限り、これが手に入るなんてあるはずないじゃない」
「俺自身、取れりゃいいぐらいの気持ちで行ったんだよ。それをどうするかなんて、あんまり考えちゃいなかった。ただ、瑛から聞いた砂漠に降る雪ってやつを見てみたくなったのさ。……俺が見られたのは、お偉いさんの代理だってことだったからかもしれねぇけど。で、思ったわけだ。これはカンナにやろうってな」
 おだやかな声音は嘘をついているようには見えない。カンナはもう一度《淡雪の花びら》に視線を落とす。すべてを浄化することのできる"奇蹟の花"が、まるで夢幻堂にいるのが当たり前とでも言うかのようにはらはらと舞い踊る白き粒子の中で花びらを開かせている。
 またもや考え込んでしまったカンナに、セツリは肩をすくめてゆっくりと口を開いた。シオンはもう口を挟むことを止めたのか、黙ってカンナの眺める《淡雪の花びら》に視線を向けていた。
「"|夢の渡り人《俺》"はひとつの場所に留まることはできない。だからもう、ここへは来られなくなるだろう」
 いつもは曖昧な言い方をすることが多いセツリが、そんな風に断定したからカンナはぱっと顔を上げる。
「今度はどこへ行くの?」
「さあな。もしかしたら、ここに飽きて転生してるかもな?」
「セツリさん……?」
「ああ、そんな顔すんなよ。お前にとっちゃ現世は辛くて苦しい思い出しかないだろうけど、俺はそうでもない。いろんな感情が寄り集まって、時々息苦しいけどな。けど……そこで俺は大切なもんを見つけちまってたからさ。いまさら現世に行ったってあいつはいねぇけど、それでも生きた証が残ってんなら、それを巡りながら生きてくってのもなかなかいいかもしれねぇって思ってよ」
 そこまで聞いてカンナはああと思う。瑛から継いだ記憶の中に、いまでもなにを意味しているのか分からない記憶があった。それは身を引き裂かれそうな叫び声ととてつもない怒りで埋め尽くされた途切れ途切れの残像。その記憶が、もし瑛の知っている彼の過去ならば、あるいは。
「……赦して、もらったのね」
 小さく吐いた息とともに零れ落ちたのは、安堵の響き。
「それ、瑛から引き継いだ記憶か? ……俺はあいつよりも長くここにいるんだけどな。ま、しかたねぇか」
 苦笑したその顔は、少しだけ悲しそうだった。そんなセツリは珍しい。
「……ヨウ様よりも前からいるの?」
「なんだ、知らんかったのか? 俺の過去は知ってるくせに」
「でも、だって」
「だって?」
「全部を知っているわけじゃないわ。私がヨウ様から継いだのは、夢幻堂に関する知識と義務、それから"夢の渡り人"との関係だけ。セツリさんの過去は、継いだ記憶に混ざってた、断片的な記憶だけだもの」
 いましがた繋がった記憶の欠片たちをかき集めながら答える。
「まぁそうだろうな。俺はそれこそ|夢幻堂《ここ》が存在しないころから知ってるんだ。瑛が知らないことも、俺は知ってる。それ以外にも………あいつが隠したがってお前には伝えなかった記憶も、俺は全部知ってる」
「ヨウ様が隠したがった記憶……?」
「本当は、いまのお前にならそれを言ったって大丈夫なんだろうけどな……瑛が知らないままでいてほしいと願うから、俺からは言えない」
 だけどな、とセツリは続けた。
「俺はあいつが選んだ運命も、それで変わった|宿命《さだめ》も全部変わりゃいいと思ってた。瑛はお前が思ってるより完璧な人間じゃねぇんだ」
「完璧だなんて思ってないわ。でも瑛様は強くて優しい方よ」
「強いかどうかはともかく、優しいのは確かだな」
「どうして突っかかるの?」
「言ったろ? 俺は瑛の過去も知ってるってな。あいつがどうしてここに来たのか、なにを願ってたのか、お前は知らなくても俺は知ってる。これ以上言う気はない。だから聞いてくれるなよ」
「だったら中途半端に終わらせないで言わなければいいのに」
「……いずれは知ることになるかもしれないからな。お前がなんかしらの決断を下したときに。そのとき、瑛の過去を知って戸惑わないでいてほしいからだ」
「ヨウ様が選んだ運命は、ヨウ様が隠したがった記憶に繋がってるのね」
「ああ……そうだな。とにかく、俺がお前に伝えられるのはもうこれっきりだ。お前がここに来て夢幻堂を継いでから、なかなか楽しかったぜ」
 言いながらテーブルに手を伸ばし、ティーカップに残っていたひとくち分の紅茶をぐいっと飲み干す。そして微睡んだ時間を断ち切るように立ち上がった。その拍子に黒いコートがばさりと音を立てる。そのままくるりと背を向けると、大股で夢幻堂の扉へ向かう。けれど、扉を明けようとした手が一瞬止まる。
「紅茶、うまかったぜ。ごちそーさん」
作品名:夢幻堂 作家名:深月