夢幻堂
セツリはそんなことをぼやきつつ、ぼすりとソファーに座る。瑛と同じように帰ろうとはしなかった。無意識に笑顔を浮かべてお茶を用意しにいくカンナを、ソファーの縁に肘をついて見ていた。
「……話、終わったのか?」
寝ていたはずのシオンが葡萄と新緑の美しい瞳を自分に向けていた。この瞳で真っ直ぐ見られたら嘘はつけないなと内心苦笑しつつ頷く。
「ああ、まあな。気になるか?」
「べつに……けど俺に聞かれたくないならもっと分からないようにやればいいだろう」
「俺はお前に聞かれても困りゃしないけどな。あいつがお前を守ろうと必死になるから」
シオンはカチャカチャとお茶を準備しているカンナに視線を向け、静かに息を吐いた。
「過去なんて思い出すときは思い出すんだろ。カンナが俺に知らせなくないならいまは知らなくてもいい。それより聞きたいことがあるんだけど」
「んあ?」
ちょうどうしろの棚に置いてある小瓶を取ろうとしていたセツリは、のけぞったまま視線をシオンに向ける。器用なやつだと思いながらシオンは質問を続けた。
「セツリも還る場所がなくなって夢幻堂に来たのか?」
シオンにとってそれはごく素朴な質問だ。だからセツリが一瞬奇妙な顔をした理由がよく分からなかった。
「なんだ?」
「………いや。行ってないな。なんで俺が夢幻堂に辿りついてないのか、理由はたったひとつだが、それを知られるのを嫌がるやつがいるからいまは言えねぇんだ。カンナあたりならもしかしたら知ってるかもしれないな」
「セツリの表現は難しくて俺にはよく分からない。つまりどういうことなんだ?」
「あー……シオンの質問にイエスかノーで答えるなら、ノーってことだ」
「ふーん」
興味なさそうな声で返したシオンにセツリはつまらなそうに視線を向けた。
「なんだ、てっきり夢幻堂に来てない理由でも聞きたいのかと思ったが違うのか」
「そのつもりだったけど、なんか聞いても結局よく分からない答えが返ってきそうだからやめておく。俺はカンナと違ってセツリみたいな難しい表現を解析できないんだ」
「解析って、んな大層なモンじゃねぇけど」
ぶははと笑いながらセツリは言う。言いながらぽんぽんとシオンの頭を叩いた。
「いずれ分かるようになるさ。まだ理解できないのは単純に生きてる年数が違うだけなんだぜ。カンナは過去がああだから普通より理解が早かっただけで、そんなん稀だ。お前は普通だよ、シオン」
「……そんなに歳食ってるように見えないんだけど」
シオンは体つきからしてまだ少年と呼ぶほうが正しいだろうが、セツリだってそこまで言うほど年が離れているようには見えない。現の人の世で言うならば、シオンは十五くらい、セツリなら二十五、六がせいぜい妥当なところだ。ちなみにカンナはシオンよりも幼く見える。けれどセツリはあくまで「見た目はな」と笑ってみせた。
「見た目に惑わされちゃいけねえなぁ。俺は瑛より年上だぜ?」
「えぇ!? うそだろ!」
「まーそういう反応だよなー。けど嘘でもなんでもなくて、あいつは歳相応に見えるだけで、俺はお偉いさん方の命令で死んだときのままなのさ。カンナは歳を留めたいと願ったからあのままだ」
「じゃあ俺はなにも願ってないから普通に歳取るってことか?」
「そうだろうなぁ。俺はただの"夢の渡り人"だから詳しくは知らねぇけど」
そこまで言ったところでカチャカチャと食器を鳴らしながら歩いてきたカンナが口を挟んだ。
「ただの、なんかじゃないでしょセツリさん。"夢の渡り人"は神様の代わりとしてこの"狭間の世界"を飛び回るんだから」
「えっ、セツリって神の代理なのか?」
「………んなわけないだろ。神の代理? そんなご大層な身分、俺は持ったことも感じたこともねぇな。都合のいい言葉だ───神が俺を使うときにな。咎人の俺に、そんな自由が赦されるとでも思ってるのかよ?」
「咎、人……?」
低い響きはセツリの怒りだったに違いない。シオンがセツリの言葉から感じるのは強い嫌悪だ。それはおそらくは神に対して、だ。かける言葉が見つからず、ただじっとセツリをみるだけのシオンの隣で、小さく息を吐いたカンナが口を開く。
「変わらないのは私だけじゃないのね、セツリさん」
あまり嬉しそうじゃない声音で、きっかり三分蒸らした紅茶を手早くティーカップへ注いでいく。白く立ち上った湯気から、ほのかに薔薇の薫りが鼻孔をくすぐる。ひとりずつ配られたティーカップを眺め、けれどまだそれに手を付けないままでセツリは答える。
「昔みたいに喰ってかかったりはしないんだな。それだけでも変わってんじゃねぇの? 少なくともお前はさ」
ソファーの肘掛けで頬杖を尽きながら、口の端をつり上げ皮肉に笑う。けれどそれはいつものような余裕の笑みなんかじゃなくて、むしろ自嘲に近い。空いた左手でにゅっと目の前に置かれた紅茶に手を伸ばすと、ぐいっと酒をあおるかのようにして飲んだ。
「俺は文字通り天罰をくらって"狭間の世界"へ連れてこられた。うつつの世に神なんざいねぇってのに、そういうときだけ勝手気ままに出てきやがる。嬉々としてな」
「神様はいるわ! でもその力は強大だから……」
思わず喰ってかかったカンナを視線だけで黙らせる。
「姿が見えねぇならいないのと一緒だ。神がうつつの世にいるって言うなら、俺たちは滅ぼされるはずもなかったんだ。あんな暴君に。……カンナ、お前はたしかに神の加護があって力を持ってたから神がいるって言えるのかもしれねぇよ。けどそんなやつは稀だ。そして見えないからこそ驕った人間どもが暴れだす。……俺だって、神に祈ったことぐらいあったんだぜ?」
「セツリさん……」
「神がいるなら祈りくらい聞こえただろう。なのに俺らには死ににいく宿命しか残されちゃいなかった……王という悪魔が振るった剣でな。あいつに罰は下らず、俺はここに閉じ込められた。俺は俺の罪をなかったことにするつもりはねぇ。だけど俺は神を信じない」
セツリの過去はだれも知らない。いや、断片的な記憶なら、夢幻堂店主に引き継がれた中に入っている。それがセツリの過去だと気づかないだけだ。それでももしかしたらいまので気づいてしまったのかもしれないとセツリは少しだけ後悔して口を閉ざした。
しん、とした耳に痛い沈黙は、わずかな衣擦れの音さえもためらわれる。その中で、美しい双眸をわずかに伏せたシオンがひそやかに息を吐いた。
「セツリの気持ち、俺はちょっと分かる気がする」
「シオン?」
「神を信じないとまでは言わない。けど、神を信じたくない気持ちなら俺もある……、と思う」
シオンの言葉はきっとカンナを驚かせたに違いなかった。シオンの過去はカンナによって封じられている以上、思い出したとは考えにくい。だとするならば、その感情は魂に刻まれた感情のはずだ。夢幻堂店主として滅多に動揺しないよう努めているカンナの視線がとまどうように二人の間を彷徨った。
「……カンナ、俺は自分の気持ちを分かってもらおうとは思ってない。分かったって気持ちのいいもんじゃねぇしな。神の加護があったからこそここへ来られたお前が神を信じないなんてありえないってことも分かってるさ」