夢幻堂
「カンナ、お前は昔っから頑固だったな。一度決めたらてこでも動かねぇ。ここに初めて来たときもそうだった。……本当は、自分にかけられた洗脳を解くこともできたはずだっただろ? そうしなかったのは、誰かが傷付くことを知ってたからじゃないのか? 自分がすべての罪を背負えば、それでいいんだと決めてたから、お前の心は自由になることを頑に拒否してた」
「───たったひとり、私が逆らえばどんなに大勢の人が苦しむのか知ってた。みんな苦しんでたの……私がつらいなんて、言えるはずなかったの」
「違ぇよ。お前を人柱にして、なにが苦しいだ、辛いだ! はなっからあいつらは自分たちさえ助かりゃよかったんだよ。お前がどうなろうと。お前だって人間なんだ………辛いこと、苦しいことを口にして何が悪い? それに、お前はまだほんの子供で───すべてを赦されてもいいほどの小さな子供だったんだよ、カンナ。あんなことは間違ってるんだ」
「だけど」
「その証拠に!」
カンナの言葉を厳しい声でセツリが遮る。セツリの真剣な声を聞くのはそういえば初めてなのかもしれないとカンナはいまさらながらに思った。セツリが本当に心配していたんだと何度か言ったシオンは、もしかしたらこんなセツリを見たからなのかもしれなかった。
「……お前はお前自身をここへ連れてきた神の罰を受けてねぇだろ。違うか?」
「神様はおゆるしになっていたとでも言うの? それでも私は私を赦さない。だってなにがどうあれ、命を奪ったのは私自身だから。その罪を償わなければならないのは私よ。………あの人たちに罰が下るべきかどうかは神様がご判断されること。慈悲深き太陽の神が私に罰を下されなくても、私が彼らの命を奪ったことを忘れていい理由にはならないの」
いつになく冷たい声音は、自らの魂に消えない傷を刻み込み、枷をはめているようにすら思える。少女の姿からするとおよそ不自然なほど薄茶色の瞳が陰鬱な翳を帯びて、永い年月をかけて彼女を覆う心の闇を映しだしている。
(私の手は血で染まってしまった───汚れていないころには二度と戻れない)
「………夢幻堂にいたいと望んだのは、罪を忘れるためじゃない。私の魂はヨウ様が浄化してくださったけど、私は痛みを忘れたくはなかった。だから留まったの。ヨウ様が言ったように、ここが儚く消えている夢や幻ではないのなら───降りかかってくる痛みをすべて受けとめなければならない現を模している場所であるなら、私はすべての痛みを忘れないまま存在できる。こんな私でも傷ついた魂を癒すことができる。……傷ついた痛みを知っているから。私はそれを後悔なんてしないわ」
ほんの少女にしか見えない彼女には不釣り合いな大人びた視線がまっすぐセツリを射抜いた。瞳の奥底に眠る昏い翳は彼女の魂に深く深く刻み込まれたもの。
(……あんなに傷ついてたくせに、痛みを忘れたくねぇってのか)
呆れるほどにまっすぐすぎる。ある意味純真とも言えるかもしれない。セツリは苦笑を隠せなかった。
「ほんっとうに頑固だな、お前は」
「それはセツリさんが一番よく知ってるでしょ?」
「シオンに自分の過去を話したっつーから、ちっとは丸くなってんのかと思いきやまだまだだな、ちびっ子」
「どうしてまぜっかえすの!」
「いいや、いまのはマジだぜ」
声音は楽しそうに、けれど黒の双眸は鋭くカンナを見据えていた。思わずびくりと身を引いたカンナの耳に、セツリが身を寄せる。シオンに聞かせないためなのだと気づくのにそう時間はかからない。シオンはシオンで怪訝そうな顔をしただけで話に交ざってこようとはしなかった。
「どうしてシオンの記憶を封じた? 神がお前に罰を下してない以上、その判断は正しいんだろうがあいつは過去を思い出したってもう大丈夫だろう」
ぴくりとカンナが反応する。聞かれなくないなら違う場所に行けばいいだろうとシオンは思う。内容が気にならないと言えば嘘になるが、聞き耳を立てるまででもない。結局ソファーに座ったまま二人の姿をぼんやりと見る。カンナはセツリの腕を取ると部屋としては使われていない、大小さまざまな宝物たちが置かれている、シオンは普段"宝物庫"と呼んでいる部屋に連れて行った。
「…………記憶を封じなければ、シオンの魂は消滅していたわ。浄化するための《淡雪の花びら》は夢幻堂にはなかった。傷ついたままイキモノたちに喰われかけて消える寸前の小さな魂を救うためには、一時しのぎだとしても現の記憶を忘れさせる以外に方法なんてなかったから……仕方がなかったの」
パタンと扉を閉めたあと、左右にあるカーテンを開けながらカンナはそう言った。きっとシオンは変に思っているに違いない。自分のことを言われていると薄々勘付いてもいるだろう。でも、いまシオンにあのころの話をしたくはない。まだもう少し、時間が欲しかった。あたたかい陽光が入り込み、宝物たちがきらきらと煌めくこの部屋でカンナは小さく息を吐いた。
「……消滅か。|イキモノ《あいつら》に喰われかけてよく生き延びたもんだ」
低い響きが怒りと感心を含んで呟かれる。
「シオンは《女神の宝珠》を持ってたわ。……多分、あの瞳を隠そうとシオンの首に縛り付けたんだと思うの」
「縛り付けた? 《女神の宝珠》には鎖なんてないだろ」
セツリの問いかけにゆるゆると首を振る。
「本当はね。だけど、それはとても強くて……怨念に近い感情が《女神の宝珠》を外そうとした私に流れ込んできたわ。あの子が逃げて世間に二色の瞳が露見することを恐れて、シオンを生んだことを抹消したい───ただそれだけの感情だった」
「どうしようもねぇ輩だな。腹痛めて生んだ子どもだろうが」
「くわしいことは私にも分からない。だけど幼い心を傷つけるには十分だったはず。きつく縛り付けられた《女神の宝珠》のほかにも傷はたくさんあった。傷つきすぎて自分が生きているのか死んでいるのかすら分からなくなった魂を救う手立てを、私はあれ以外知らなかったのよ」
「………どうしてこう、傷ついた魂ばっかりなんだろうな。"|狭間の世界《ここ》"に辿りつくやつらはさ」
「セツリさん?」
「いろいろ疑ってかかって悪かったな。もういいぜ」
見上げたカンナの頭をぽんぽんと撫でると、セツリは背を向けて扉を開ける。もうこれ以上は聞かないという意思表示だ。理解したカンナもカーテンを閉めると、あまり入らない部屋の扉から出た。ソファーにはうとうとと微睡んでいるシオンの姿がある。猫の姿のときと変わらない光景に思わずくすりと顔が緩む。救ったつもりの魂に癒されているのは実は自分なのかもしれない。
「セツリさん、お茶を入れるから座って待ってて。まさかすぐ帰るなんて言わないでしょ?」
「ふーん……? てことは瑛には帰られたのか。まあ、あいつらしいっちゃあいつらしい」
「なんでそうイラッとするようなこと言うのかしら」
にやにやと楽しそうに笑うセツリをじろりと睨み、背を向ける。なまじ合っているだけに反論もできない。
「どうせけじめがどうとか言ってたんだろ? くそ真面目だからなーあいつは。お茶ぐらい一緒にしてやりゃいいのにな」