夢幻堂
「埋めてもオイラたちは産まれませんッスけどね」
そんなことは言われなくても承知だ。むしろ種から産まれる魚なんて生態系から明らかに逸脱しているではないか。それを見越しての発言だったかどうだかは定かではないが、とりあえずこの"魚の種"とやらは魚たちの世界ではごく当たり前のもののようである。
「あんさんたちにはないッスか?」
「俺たち? 人間の種、ってか? あるわけあるか!」
考えるだに気色悪い、とでも言うようにシオンはぶるっと震えた。生理的反応かもしれない。たしかに人間の形をしたつるりとした種のようなものが産まれたら不気味だ。同じことを想像したのか、笑うのを失敗して表情が崩れたカンナが頷いた。
「……そうね。さすがに"人間の種"なんてものはないわ。だけど私も"魚の種"なんて初めてよ。あなたたちはこれを産むのが当たり前なの?」
「そうッスねぇ。まれに産まないやつもいるッスけど……オイラたちはたいがい人にかわれることが多くて、死ぬ間際にそれを産むんッスけど、見てくれる人はほとんどいないッス」
しょんぼりとした声を出して、朱い金魚は魂の姿のままふよふよと夢幻堂の中を泳ぐように浮いている。カンナはそっと"魚の種"を《玻璃の金魚鉢》から取り出すと、宝物のように手のひらに乗せて見つめる。爪の先ほどしかないそれは、ひんやりと冷たく、澄んだ水の色をしていた。そう、水と同化してしまいそうなほどだ。シオンもカンナの手を覗き込んで、そうっと手を出して触る。カンナはくすりと微笑うと、シオンに"魚の種"を渡してやり、代わりにくるくると金魚鉢にいるときのように空中で泳ぐ金魚に声をかけた。
「……人には見えないんじゃないかしら。現の世は、そこにそぐわないモノたちを映し出してはくれないから。でもここは夢と現の間、狭間の世界。シオンにも私にも"魚の種"が見える。でも、死ぬ間際に産むなら、あなたはどうしてこれを死んだときに産まなかったの?」
「……あぁっ! なんでッスかねぇ?」
"魚の種"に夢中だったシオンがガクリとする。
「いまごろ気づいたのか! おまえ、呑気だなー」
「オイラにも理由なんて分からないッス。けど、あんさんたちに渡したくて産まずにここまで来たんじゃないッスかねぇ」
「俺たちに?」
手に乗せた"魚の種"に視線を戻して、シオンが怪訝そうな顔をする。自分たちに会えるなんて、この金魚は知らないはずだった。そう言い切ってしまうのは彼らしい強さなのだろうか。じっと"魚の種"を見つめるシオンの隣で、カンナが嬉しそうに金魚の魂を見た。
「これは幸運のお守りね。持っていると不思議と気持ちが洗われるわ。あなたの真っ直ぐな強さが、そのままこれに乗り移ったみたい。本当に私たちがもらっていいの?」
まだぼんやりと金魚の形をとどめている、白色の輝きを持つ魂がこくこくと頷いたのが分かった。夢幻堂は相変わらずの静けさが保たれ、金魚がもういない《玻璃の金魚鉢》の涼しげな水音を聞くことはできない。
「幸運のお守りかどうかは分からないッスけど……オイラたちは幸せになってほしくて"魚の種"を産むッス。だからそれはあんさんたちのためのモノで、もらってくれるなら嬉しいッス」
「嬉しいわ、とても。ね、シオン?」
ようやく"魚の種"から目を離したシオンがまっすぐ金魚の魂を見る。やわらかな黒髪が揺れ、宝玉のように美しい葡萄と新緑の双眸がきらきらと輝いている。
「ああ、ありがとな。えーと……、魚?」
がくっと脱力したのは金魚の魂だけではなくカンナもだった。薄茶色の髪に手を埋め、「あーもう台無しじゃないの」と呟いている。
「……あんさん、キレイな目でなにを言うかと思いきや、結局『魚』って……まぁ名前がないからしょうがないッスけど、もうちょっとなんかこう……」
と抗議しようと思っていたはずだろうが、どうしてかからからと金魚はおかしかったのか笑いはじめた。その笑いにつられて、腑に落ちない顔をしていたシオンもくくくと喉で笑う。この金魚は夢幻堂に差し込む陽光よりもずっと明るい。他の人の心まで明るく照らしてくれるような、そんな温かさだ。それが、カンナにもシオンにも心地いい。
「それより店主さん、オイラはそろそろ行かなくちゃいけないんじゃないッスか?」
ひとしきり笑ったあと、金魚はカンナに向かってそう言った。言われたカンナも笑いを引っ込め、ごちゃごちゃと色々なものが置いてある戸棚に足を向ける。向かった先は小瓶やら宝石やらが置かれている小さな棚ではなくて、衣類をしまっているタンスだった。精緻な紋様が施されたタンスを開け、紺碧の外套のようなものを取り出す。両手におさまるほどの魂には不釣り合いなほど大きい。まだ青年になり切れてはいない、少年と言っていい体つきのシオンにも大きいだろう。けれどカンナは気にすることもなく、それを持ってそっと乳白色に輝く魂を包み込むように抱きしめた。
「この《七つの海の|衣《ころも》》は、海を統べる神が、その名の通り七つの海を集めて創ったもの。輪廻転生は神様が導かれるものだから約束はできないけれど、海の神はお優しい方。海へ行きたいと強く願うなら、きっと叶えてくださるはずよ」
ふんわりと優しく微笑むと、《七つの海の衣》ごと小さな魂をぎゅっと抱きしめる。
「───魂の色が」
シオンが驚いて息を呑む。朱い金魚を包み込むの乳白色の輝きに、美しい海の色が混ざる。大海を想像させる深い紺碧を持っていた《七つの海の衣》の姿は消え失せ、金魚の魂と同化したのだ。まだ完全には混じり合わず、まだらな輝きをしてはいるが、その輝きは透明度を増すばかりで|翳《かげ》のひとつも見当たらない。きっと、神にもっとも慈しまれるだろう。それを思ってカンナは満足そうに微笑った。
「きれいね。こんな綺麗な魂、あなた以外に会ったことがないわ。……きっと、これからも」
「そんなに褒められると照れるッス。店主さん、こんなちっぽけなオイラに大切なものをくれて、どんなに感謝しても足りないッス! あんさんも、最初はオイラの天敵かと疑って申し訳なかったッス。あんさんといつか海で一緒に泳いでみたいッスねー。きっと気持ちよくてミレンもコウカイも忘れられるッスよ」
感激でふるふると魂を震わせながら──カンナとシオンに見えるのは白と蒼が混ざり合った魂がゆらゆら揺れているように見えるだけだが──感極まった声で言った。カンナは薄茶色の瞳を閉じて、ゆるゆると首を横に振る。さらさらの髪がそれに合わせて揺れた。
「そんなことないわ。私たちはもらいすぎるほどもらったの。一番の贈り物はあなたの産んだ"魚の種"よ。ありがとう、大切にするわ」
にっこりと笑ったカンナの隣で、シオンもそれに頷いたものの、正面切って礼を言うのが恥ずかしいのか、目線を逸らす。
「……ありがとな。俺はおまえほど前向きにはなれないけど、おまえみたく綺麗な魂に出会えてよかったよ。…………いつか、海を見たらおまえを探して一緒に泳ぐか。俺は魚になる気はないけどな」