夢幻堂
「大丈夫ッスよ。もし次に海にいられなくても、また次に生まれ変わるときはおんなじように願うッス」
「前向きだな、お前。なんでそういう風に思えるんだ? 次なんてあるかどうかも分からないだろ?」
「あんさんはずいぶん後ろ向きッスねぇ。オイラはべつに前向きなわけでもないッスけど、嘆いててもしょうがないッスからね。それがジブンのジンセイってやつッスよ」
十分前向きだろうと言ったところで、この金魚は「そうッスかねぇ」と言うだけだろうからシオンは言うのをやめておいた。
「で、代償ってなんッスか?」
カンナはすっと指を金魚に向けた。薄茶色の瞳が楽しそうに彼を射抜く。なにを指しているのか分からなかった金魚とシオンは怪訝そうな顔をカンナに向ける。
「それよ。あなたがいま泳いでる金魚鉢」
「金魚鉢?」
「えっ、これをッスか?」
シオンと金魚はトーンの違う声をそろって出した。カンナはふんわり笑顔を浮かべながら頷いた。
「そう、その金魚鉢は《玻璃の金魚鉢》と言うの。魂の色をうつしだす、をとても珍しいものなのよ」
「映し出す? そんなものが現にあるのか?」
尋ねるシオンに、カンナはふふふと微笑う。
「これはね、もとはただの金魚鉢だったの。けれど、彼が入ったことによって《玻璃の金魚鉢》へと姿を変えたのよ」
「でもオイラが入ってもなにも変わらなかったッスよ」
黙って話を聞いていた金魚も、自分が入ったから変わったのだと言われれば聞きたくもなるだろう。彼はきょろきょろと頭を動かしながら、透明な金魚鉢の中をくるくると回ってみせた。
「魂の色をうつしだす、と言ったでしょう? うつしだすためには、それ自身が無色透明でなくてはならないの」
「それって金魚鉢じゃなくちゃいけないのか?」
もとの姿のままソファーにどっかりと座ったシオンは、藤と新緑の美しい瞳をしかめながら問いかけた。
「いけないわけではないと思うわ。だけど力が宿っているのだもの、なぜ、なんて理由が必要? あえて言うなら水が入るもの、だからかもしれないわね」
「水? ……あぁ、映し出すために必要だってことか?」
「そういうことね。私があなたを強いと言ったのは、無色透明の魂を持ち続けたまま|夢幻堂《ここ》へ来られたことへだったの。生まれたばかりの赤ん坊のようにまっさらのままでいられる魂は、ほとんどいないわ。ましてや夢幻堂は魂の休息所───現に疲れてしまった魂や、還る器を失くしてしまった魂が辿り着く場所でしょう? 未練や後悔を持たないほうが珍しいはず。でも、あなたにはそれがあるかしら?」
カンナはまっすぐ金魚を見たままだった。けれどシオンには分かる。あの言葉はシオンにも、カンナ自身に対しても問いかけていた。店主のカンナでさえ、未練や後悔を抱いたまま夢幻堂へと辿り着いた。シオンも、ここへ来たあまたの魂の中で、このままでいいと言い切った魂を知らない。その強さがどこから来るのか、シオンは聞いてみたい気持ちにさせられる。
(だけど怖くて聞けないな)
知ってしまったら、自分にはできないと愕然としてしまうかもしれないから。そんなことをつらつらと思っている間も、金魚はくるくると金魚鉢の中で気持ち良さそうに泳ぎながら答えを考えていたようだった。
「オイラにはミレンってやつもコウカイってやつもどんなのだか分からないッスけど……分からないってことはオイラには必要ないものってことだと思うッスよ」
「分からない、のか。そりゃ羨ましい話だな」
苦笑を漏らしてシオンが呟く。
「水のなかで泳ぎつづければ分からなくなるッスよー」
あっけらかんと言う金魚にシオンは反論しようとして、けれど結局その発言がおかしかったのか声を上げて笑う。金魚鉢が置かれたお客用のテーブルを挟んで、カンナも楽しそうに笑顔を浮かべていた。きっと彼女もその明るさを羨ましいと思ったに違いない。
「俺は人間だよ! 魚じゃないからえら呼吸はできないな。泳ぐのは気持ち良さそうだけど」
「あんさんたちはイロイロと大変ッスねぇ」
少し悩んだように言う金魚は、夢幻堂にどこからか差し込んでくる光に当たって朱い色がさらにきらめく。またくるりとその中を泳ぐと、「そういえば」と話を続けた。
「この金魚鉢を店主さんに渡せばいいんッスね? でもオイラはどうやってここから出ればいいッス? って言うより出ても大丈夫なんッスか?」
話をもとに戻した金魚はあっさりと結論を下した。本当に前向きな魚だ。人間にもこれくらいの能天気な潔さが必要なのかもしれない。そんなことをシオンがつらつらと考えている間にも二人の会話は続いていく。
「ここでは、すべてのものたちが魂の状態にあるの。だからあなたも水の中にいる必要はないわ。その《玻璃の金魚鉢》を傾けるから、そのまま出てきてくれるかしら?」
カンナにあいわかったと頷いてみせた朱い金魚は、カンナがその金魚鉢──正確には彼によって《玻璃の金魚鉢》となった──をそっと持ち上げて斜めにする。当然入っている水も一緒に傾き、濃い蒼で彩られた硝子の金魚鉢の縁に流れていく。
「ちょっ、カンナ! 水がこぼれるんじゃないのか?」
「大丈夫よ、ほら」
にっこりといつものように微笑った彼女は、傾けた金魚鉢に視線を向ける。そこには流れ出るはずの水はなく、ただ一匹の金魚の魂が零れ落ちただけだった。
するりと抜け出た金魚の魂はまだぼんやりとその姿を保ちつつ、かすかに蒼の色味を帯びた|月長石《ムーンストーン》のような光に満たされている。それが彼の魂の色なのだろう。未練も後悔も残さない、穢れなき色だ。
「……なにがどうなってるんだ?」
思わずソファーから立ち上がって《玻璃の金魚鉢》のそばに寄る。触れてみてもなんら変哲もないただの金魚鉢だ。
「この金魚鉢と水が一緒になってこそ《玻璃の金魚鉢》なの。理屈はどうあれ、この金魚鉢から水が零れることはないわ。そういうものなのよ、これは」
「ふーん? よく分からんけど、まぁいいや」
きっと考えたってどうせ分からないのだ。割り切ってしまうほうが楽だ。シオンは触っていた金魚鉢をカンナに返し、それでも視線はまだ《玻璃の金魚鉢》に注いでいた。その二色の双眸がふと細められる。
「なぁ、それは?」
《玻璃の金魚鉢》をじっと見つめていたシオンがなにかに気付いてカンナを見やった。
ゆらゆらと涼しげに揺らめく水の底に、ころんとなにか小さいものが転がっている。朱い金魚はすでに出てきているのに、なにが残ったのかカンナにも分からず、シオンと一緒に覗き込んだ。それはどうやら小指の爪くらいの大きさのようだ。
「……魚の形をしてるわね」
金魚の美しい朱とは対照的に澄んだ水の色を持つ、魚の形をした"なにか"。夢幻堂の店主であるカンナが分からないことは滅多にない。少なくともシオンは見たことがなかった。当然二人の視線はふわふわと自由に漂っている金魚へ向けられる。
「あっ、よかった。ちゃんとオイラにも受け継がれてたッスね」
金魚はごく当たり前のように言ってのけた。どうやら彼にとっては身近なもののようである。
「これはなんなの?」
「なにって、"魚の種"ッスよ?」
「魚の……」
「種?」
カンナ、シオンの順で言葉を返す。