夢幻堂
第六章 来訪者─虹の羅針盤
りりりん、と夢幻堂の鈴が鳴った。
普段となんら変わりのない静かな夢幻堂でだらんと寝そべっていたシオンが気だるそうに顔を上げる。その横でいつもは突然とも言えるお客に驚かないはずのカンナが、思わず立ち上がって開いた扉の向こうにいた人の良さそうな老紳士を凝視した。
「カンナ?」
招かざる客が来たのかと警戒を強めた声を出したシオンに首を振って、カンナは身なりのいい老人のそばに駆け寄る。
「ヨ───」
「久しぶりですね、夢幻堂店主。……いえ、はじめまして、でしょうか?」
カンナの言葉を遮り、おだやかな声で言った。
「はじめまして……?」
「私の名は"流浪の行商人"。この世界を回り、相手に必要なものを渡す者です。今日はあなたに贈りたい宝物があって持ってきました。夢幻堂の店主──カンナ、あなたへ」
混乱したカンナはいつものように案内することも忘れ、ただ自分よりも背の高い老紳士を見上げ戸惑っていた。ただ警戒する必要もなさそうだとなんとなく感じ取ったシオンは山高帽をかぶった老紳士に向かって声をかけた。
「とりあえず入ってお茶でもどうだ? カンナもあんたも知り合いみたいだし」
ぱたりと尻尾をゆっくり振って言ったシオンに驚きもせず、その老紳士はにっこりと笑顔を向けた。
「彼女がそれを許してくれるなら」
「私が拒むとでも思ってるのですか? ……歓迎します、心から」
ようやく我に返ったのか、ちゃんとまっすぐ目を見てすっと礼をした。
「夢幻堂へようこそ、"流浪の行商人"、ヨウ様」
「いまはその名前を使っていないのですよ」
「私にとってはその名前でしか呼べません。それとも呼んではいけませんか?」
ヨウと呼ばれた"流浪の行商人"は深くかぶった帽子の下でかすかに苦しげな表情を浮かべる。けれどそれにカンナが気づく前に笑顔で隠した。
「………いいえ、カンナ。けじめを付けようかと思っていたのですが、私も心が弱いですね」
「そんなことないです! ヨウ様はいつだって芯の強いお方ですから」
真剣な顔をして言うカンナに、ヨウは苦笑を漏らす。その視界に、ぱたりと尻尾を下ろすシオンが見えた。
「では少しだけお邪魔させていただきますね。はじめまして、黒猫さん。私はこの世界を渡り歩く"流浪の行商人"です。どうぞお見知りおきを」
ぺこりと礼儀正しく頭を下げた男に、黒猫姿だったシオンはするりと姿を変えて元に戻る。
「シオンだ」
「シオン……ああ、"|紫苑《しおん》"の色を当てたのですね、カンナ。けれど、その色目よりもとても澄んでいて美しい」
手放しで褒めるヨウと言う老紳士に毒気を抜かれ、シオンは返す言葉に詰まる。褒められるのには慣れていない。背筋がぞわぞわすると一瞬言いかけそうになってやめる。初対面の相手にそれはさすがにないだろう。しかも自分がけなされているわけでもないのに失礼な話だ。
「……そりゃどうも。で、お茶飲んでくんじゃないのか?」
とりあえず目の色の話から逸らそうとすることに決めたらしいシオンに、カンナがくすくすと楽しそうに笑った。
「いえ、長居はしません。私はカンナにこれを贈るために来ただけですから」
しゃら、と涼やかな音を立てて老紳士が取り出したのは、カンナにとっては久しぶりに見るものだった。笑顔を引っ込め、それを凝視する。
「………これ、は」
「あなたに相応しい贈り物でしょう?」
いつかのとき言われた言葉をそのままに、ヨウはまたおだやかに笑って言った。けれど、素直に手を出すことができない。これは、ヨウの幸せを願ってカンナがヨウに贈ったものだったから。返されるということは、必要ないと言われているのと同じなのだろうか。
「なに不安そうな顔してるんだよ、カンナ」
どうやらカンナが黙りこくってそれを見つめていたせいか、少し不機嫌そうな声でシオンが聞く。
「……そんな顔をしなくても、私は十分これに導いてもらいました。次はあなたの番ですよ、カンナ?」
夢幻堂に差し込む光に反射して、極彩色の煌めきを放つ。息を呑むほど美しいそれに、シオンも目を奪われたようだった。カンナは久しぶりに見るそれにまた惹かれ、くるくると進路を定めかねて揺れている虹色の針を見つめた。
「これはもう、私を導いてはくれません。《虹の羅針盤》はカンナとともに在りたいと、そう願っているのです」
ヨウは伸ばしかけて引っ込めたカンナの手をやさしく取り、その掌にそっと《虹の羅針盤》を握らせた。彼女が拒まないと分かっていたから、ヨウはそのまま手を離す。|黄金《きん》色で繋がれた鎖がしゃらりと涼やかな音を立てて滑り落ちる。
「どうして」
カンナもまた、同じ言葉を返す。あのときと。ヨウはなにも言わずにまた優しい笑顔を向ける。けれど、それがどこか寂しそうで、《虹の羅針盤》を握りしめたままカンナはまた声を上げようとする。
「幸せになってほしいと願っているからです。カンナが私にそう願ってくれたように」
「………」
カンナは黙る。ちゃんと覚えているからこそ、そして願われたらなお拒めないと知っているからこそだ。シオンは自分が出る幕じゃないと思ったのか、はたまた飽きたのか黒猫姿にするりと変化してソファでくつろいでいた。シオンなりに気を遣っているのかもしれないけれど。
「すべては夢幻ではないと言ったことを、覚えていますか?」
ヨウは黙ったままのカンナに問いかける。色素の薄い茶色の瞳が見開かれ、わずかに首を縦に動かした。
「夢幻堂は、儚く消えゆくユメとマボロシではなく───」
「そこに身を置くものは……、少なからずうつつを模している、でした」
「よくできました。そしてここへ辿りつくすべてのものは在るべき場所へとうつろうのです。……《虹の羅針盤《それ》》も、いまはあなたのそばに在りたいと望んでいる。夢幻堂店主カンナ、その願いを断ることはできますか?」
優しい声色に含まれる意味は問いかけではなく、戒め。かつてこの場所の住人だった老紳士の。
断る、とは言えなかった。断ってはならないと約束されているから。
「───いいえ。……それが私のそばにと望むなら、私が断ることなどできません。ヨウ様もそう望んでくださっているなら、なおさら」
ぎゅっと握られた手の中の《虹の羅針盤》が、意志を持つかのようにほのかに輝きを増した。還ってきた、と感じ取ったのだろうか。それを満足そうに眺め、頷く。
「それでいいんですよ。あなたを必要としている《虹の羅針盤》を届けられて安心しました。……では、そろそろ失礼しましょうか」
そう言って、ヨウはカンナとシオンに背を向けた。
「もう行かれてしまうのですか?」
「長居はできませんよ。私は"流浪の行商人"ですから、お役目は果たしたということです」
「でも」
「長居すると懐かしくて離れがたくなってしまいますから」
そう言うと本当に扉に手を伸ばして、チリンと鈴を鳴らしながら開ける。突然入ってきた風にかぶっていた帽子を飛ばされそうになるのを手で押さえる。
「ヨウ様」
行ってほしくないと素直に言えないカンナは、ただ名前を呼んだ。その心をちゃんと理解した上でヨウは振り向いてくれた。