夢幻堂
「あたたかい場所にしてくれたんですね、ここを。カンナが夢幻堂を引き継いで、|シオン《あの子》が留まり、ずいぶんと明るくなりました。とても嬉しいですよ」
「ヨウ様!」
「ではまた。カンナ、シオン」
静止の声を振り切るように、ヨウはにっこりと笑顔を浮かべて言った。カンナが返す言葉を迷っている間に夢幻堂の扉は閉まりかけ、けれど寸前で留める。
「また、ここへいらっしゃるのをお待ちしています。そのときはとびきり美味しいお茶を入れますから、だから飲んでいってください」
ヨウはなにも言わずただ微笑んだだけだった。パタリと静かに閉められた扉をしばらく眺めていたカンナは、薄茶色の髪を揺らしてソファに寝転がっているシオンのほうを向く。
「結局、本当にそれを届けにきただけだったんだな」
カンナの手の中で七色の煌めきを放っている《虹の羅針盤》を見つめ、シオンが退屈したのか呆れたのか、彼にしては単調な響きでそう呟いた。カンナは自分のもとへ戻ってきた《虹の羅針盤》を見つめ───、そっと壊れないようにポケットに入れた。いつもの戸棚の上ではなく。
(これは誰かのものじゃなくて、私のもの)
ごく自然に、なんの違和感もなくそう思って、ふわりと微笑った。
「………なに笑ってんだ?」
不気味なものを見る目つきで、黒猫姿のままのシオンが問いかける。カンナは「ふふふ」とただまた笑っただけで答えない。代わりに退屈そうな彼に提案をする。
「ねぇシオン、お茶飲まない? 昨日作ったケーキと一緒に」
突然がばりと起き上がったシオンはするりと姿を元に戻して詰め寄った。ぱたりぱたりとつまらなそうに尻尾を振っていた黒猫からは想像もつかないほどである。
「そういうことは早く言えっ!」
「そんなに急がなくたってなくならないわよ。ほら、用意を手伝って」
なんやかんやと言い合いながら、二人はカチャカチャとお茶の用意をしはじめたのだった。
夢幻堂の中にはあたたかな光と、楽しげな笑い声で満たされたのを扉越しに感じ取ったヨウは、安堵したように息を吐き、視線を上に上げた。
ぬるい風がびょうと吹く。姿のないイキモノたちがざわざわと喚き、不協和音をかもし出している。
地上から見えるうつくしい青空はどこにも見当たらない。
天上の花咲き乱れる神の庭のように安寧とはほど遠い。
それが夢幻と現の狭間にある不安定なこの世界の常。当たり前の光景。束の間の休息を与えるあの場だけが永遠を赦された異端の場。それでも、と思い募る。
「───狭間のすべては無に帰すのでしょうか。…………神よ」
ベージュのコートを強い風にはためかせ、老紳士は狭間の世界からは決して見えぬ天上に向かって囁いた。いつかは、と。
神が応えてくれることないと知っていても。
手にしたのは望んだ未来。
幼い彼女が託してくれた《虹の羅針盤》は、多くを望みすぎた自分を導いてくれはしない。
永遠に続く運命を受け入れ、輪廻の輪を外れたあの瞬間から。
それでも幸せなのだと言える。自分がいたことで彼女が救われたと感じてくれるなら、それだけで。
かつては永きに渡り夢幻堂の店主として存在していた彼は、その扉を背にしてまた狭間の世界を流浪する。
次の運命の輪がまわるときまで。