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夢幻堂

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 ヨウの声音はどこまで穏やかでやさしい。それが、自分を傷つけるものではないと少女は本能的に知っていた。そして、その体温《ぬくもり》が偽りではないことも分かっていた。それでもためらったのは、心のどこかで自分を苦しめた人たちの姿に怯えていたせいなのかもしれなかった。
 ヨウは無理に《淡雪の花びら》を抱かせようとはせず、彼女自らが望むまで待ち続けた。じれったそうに見つめるセツリも口出ししようとはせず、代わりにぽんぽんと少女の頭を撫でた。

 そして少女は《淡雪の花びら》に手を伸ばし、すべてを浄化することを受け入れたのである。


「ヨウさま。セツリさんはどうしてお客様ではないのに夢幻堂に来られるのですか?」
 夢幻堂に来て幾月かが経ち、ヨウからもらった名前に慣れたころ、カンナはふと思い立って聞いてみた。セツリはふらりと夢幻堂を訪れては他愛もない雑談をして帰っていく。けれど、彼はここのお客ではない。夢幻堂の中だけしか知らないカンナは、セツリがどこから来てどこへ行くのか、まったくもって知らなかったのだ。ヨウはその質問に、紅茶を入れようとしていた手を一瞬だけ止め、小さく笑って言った。
「セツリはこの世界の秩序を守る、"夢の渡り人"ですよ」
「この世界? ……の、"夢の渡り人"?」
 ヨウはカンナの問いに考える表情を浮かべ、静かに口を開いた。
「まだ、カンナにはこの世界のことを話していませんでしたね。今日はお客様も少ないでしょうから、お茶を飲みながらゆっくり話しましょう。カンナ、そこのポットを取ってもらえますか?」
 カンナは頷き、そばに置いてあったティーポットを取る。そのポットに一気に熱湯を入れて温めると湯だけ捨て、茶葉を二人分入れた。透明なティーポットに再びお湯が注がれ、茶葉がくるくると躍る。それをじいっと見つめるカンナにくすりと微笑み、「向こうへ持っていきますよ」とだけ声をかけた。
「まずはこの夢幻堂のことから話しましょう」
 ポットからお茶を注ぎ二人分のお茶と甘いお菓子を用意してから、ヨウはそんな風に切り出した。カップに手を伸ばし、立ち上る湯気を息でどかしながらカンナは、視線だけヨウに向ける。
「夢幻堂は夢と現の狭間にある魂の休息所、というのは前に話しましたね。ここにはさまざまな魂が辿り着きます。還るべき器を失った魂、現に疲れて夢を彷徨う魂、稀ではありますが修復できないほどに悪意にまみれた魂……それを受け入れるための居場所が、この夢幻堂の存在意義でもあります」
 実際、カンナが出会った魂の中に悪意あるものはいなかったが、きっとヨウは幾度か経験があるのだろう。特に口を挟むでもなく、カンナはソファーにちょこんと座り、ヨウの話に耳を傾けていた。
「夢幻堂の外の世界──といっても夢幻堂を含めてのことですが、この世界のことは"狭間の世界"と呼ばれます」
「……ゆめとうつつの間、だから?」
「そうですね。夢幻堂の外はけっして安寧だけではありません。常に危険を伴います。彷徨いこんだ魂を喰らう"イキモノ"たちもいます。……哀しいことではありますが、夢幻堂に辿り着けずにそれらに喰われてしまった魂もあるでしょう。すべての魂を救うことは神でもない限り不可能で……私の力が及ぶ範囲でしかここへ連れてこられないのですよ」
「"イキモノ"って、どんなものなのですか?」
「実体は、ないのです。ただ風がうねり、ざわざわと不協和音のように声が聞こえるだけで……小さく弱い魂を吸い取ります。ああ、だからカンナは外へ出てはいけませんよ。私は夢幻堂の店主でこの場所を守る身。それ相応の"力"を持つことを許されていますが、あなたはここへ留まっている魂の状態ですから」
 少しだけ厳しい顔でそう言ったヨウに、カンナは不思議そうな表情で自分を見た。けれどちゃんと人の姿をしているし、魂の状態ではないはずだ。カンナの理解の上では、仄かな輝きを放って浮かんでいるのが魂の状態だということだ。その疑問を汲み取ったヨウが微苦笑を浮かべて補足する。
「人の姿を保っていられるのは夢幻堂の中だけなんですよ。私が力を注がなければここへ来る魂たちも自分の姿を保っていられず、魂の状態になります」
「わたしも、ですか?」
「……ええ。美しい、炎の煌めきを模したような魂でした」
 消え入りそうに儚かった、とは言えなかった。彼女は神の加護を持ち、傷つき疲れ果てた魂もその加護を持ったまま、神の手によって夢幻堂に辿り着いた希有な少女だった。けれど、それを伝える必要があるのかどうか、ヨウには分からなかった。だからそれだけ言うと、カンナに聞かれていた質問に話を戻す。
「カンナが最初に聞いたセツリのことですが、さっき"夢の渡り人"だと言いましたね。彼はこの"狭間の世界"を渡り歩き、この世界の歪みを正して律することを神から課せられた者です。だからいろいろな場所に顔を出すことができるのです。この夢幻堂へも、お客様ではなく来ることができるのは"夢の渡り人"であるセツリのみ。居心地がいいとセツリはよく言ってくれますが、ここへ来るのも"夢の渡り人"としての責務があるからでしょうね」
 そう言い終えて、ふわりといい香りのする紅茶を飲む。
「………でも、セツリさんは来るといつもわたしのことを子ども扱いしてからかいます。あれは仕事なんかじゃなくて絶対楽しんでるんです!」
「セツリなりにカンナのことを見守っているんですよ」
「ヨウさまみたいにセツリさんはやさしくないもの」
 むぅ、と口を尖らせるカンナの頭を優しく撫で、カンナを自分の隣に座らせる。そしてヨウはにっこりと微笑ってそう言った。
 彼なりにカンナのことを心配しているのだろうが、会うたびに小さいだのもっと成長しろだの、はたまた持っているお菓子をひょいっと盗んでカンナが追いかけてくるのを楽しんでいるセツリを見ていれば、カンナの文句は当然といえば当然だ。ただ、いつかきっと分かるだろうとヨウはただなにも言わずに、二人のやりとりを微笑ましく見ている。
「今日はきっとお客様は来ませんから、ゆっくりと眠っていていいですよ。このところ、色々なお客様が来ていて疲れたでしょう?」
 低くも、高くもない穏やかな声が頭から聞こえ、おとなしく髪を撫でられていたカンナの双眸がとろんと閉じかけた。耳が痛くなるほどの静寂に包まれた夢幻堂は、安心し切った彼女を眠りにいざない、ゆるやかな時間が漂う。ヨウは満足そうに微笑み、お茶とお菓子を片付けるためにゆっくりと立ち上がったのだった。


 カンナにとって"敵"と見なされたセツリが来たのは、ヨウから話を聞いてから数日が経ってからだった。
「よう、ちびっ子」
「ちびっ子じゃないわ! ヨウさまがくれた名前がちゃんとあるんだから!」
 来ると必ず交わされる口喧嘩とも言えない会話だ。反応しなければいいものを、カンナもすぐに言い返してしまうせいで、結局からかわれる羽目になる。ただとうのセツリはハイハイと軽くあしらいつつ、今度は真面目な顔でヨウに視線を移した。今回も勝てなかったと──そもそも勝負をしているわけではないのだが──むくれるカンナも、セツリが持っているものに視線を向けた。
「瑛、外でこんなん拾ったぜ」
作品名:夢幻堂 作家名:深月