夢幻堂
大きな手をつややかな黒髪に乗せ、わしゃっと撫でる。一見乱暴かに見えて、その実仕草もまなざしも優しい。少女はヨウに握られた手をじっと見て、自分を撫でた相手を見上げて、目を伏せる。そのとき、かすかに肩が震えるのをヨウは見逃さなかった。
「声を殺さなくていいのです。もう、あなたを苦しめるものはなにもない。思う存分泣いて、そして笑ってください」
怯えを隠せない焔色の瞳が、潤む。ヨウの優しい声と、豪快に触れる手のあたたかさがきっかけだったのかもしれない。
「わ、たし………は」
唇を噛みしめ、なおも声を殺そうとする少女の頬を、ぐにっとつまんだのはセツリだった。
「セツリ」
とがめる声音のヨウを無視して、セツリは少女の瞳だけをまっすぐ見つめ返した。
「声、殺すなって言っただろ? 泣けよ、大声で。俺たちはそれを受けとめてやる。子どもが泣かないなんざ、間違ってるぜ。強がってんじゃねぇよ」
セツリの口調が強くなる。ヨウはもうそれを止めようとはせず、代わりに少女の頭にやさしく触れる。セツリの声が少し乱暴に聞こえるのは、彼自身がかつてそうだったからかもしれない。彼女と同じように、強がっていたのかもしれないとヨウは思う。
「泣くのは、だめって……」
「頑固なちびっ子だ」
にやりと目を楽しそうに光らせて、セツリは横から少女の頭ごとがっしりと抱きしめた。突然の行為にヨウは一瞬動きが遅れ、当の少女は驚きすぎて逆に固まっている。それを好機と見たかどうかはさておき、セツリはそのまま大きな手でぐしゃぐちゃとうつくしい黒髪を撫でまわした。……さしずめ嫌がる猫を抱きかかえて可愛がろうとしている図に似ているかもしれない。
少女は事態を少しずつ理解したのか、がっしりと抱きかかえられている腕から逃れようと身じろぎするが、所詮幼き子どもの力である。セツリにはびくともしない。
「……セツリ、気持ちは分かりますが少し乱暴すぎでは?」
少しあきれたような、苦笑を含んだ声音でヨウが口を挟む。
「これぐらいがちょうどいいんじゃねぇの? ガッチガチに緊張して、自分を責め続けたっていいことないぜ」
抱きかかえる腕は放さずに、ただ伝える声はやさしく強い。言葉づかいと接する態度は丁寧とは言えないのに、すべてを受けとめてくれると感じさせる。少女はびくりと肩を震わせたものの、もう逃げようとはしなかった。
「あなたは独りではないのですよ。……ほら、あたたかいでしょう?」
抱きかかえられているままの少女の手を、ヨウはもう一度握る。つよく、つよく、|体温《ぬくもり》を伝えるように。素直に甘えてもいいのだと言うように。
少女は大きく息を吸う。けれどうまく吐けずに、くちびるが震えた。ヨウは握った手をつよめたまま、セツリは腕の力を少しだけゆるめて、今度はゆっくりと髪を梳いた。
「………っ、ぁ………」
深く哀しみに沈んでいた焔色の瞳がじわりと潤み───泪がつたった。
「ぅ……っく………」
嗚咽は少しずつ大きくなって、まっさらで透明な泪がいくつもいくつも瞳から溢れでる。すべての感情を封じ込め、ただ犠牲となることを望まされていた少女の心の枷が、ようやく溶けはじめたのである。
たくさんの貴石や|骨董品《アンティーク》、美しい宝物たちが並べられている戸棚を、光の具合で金にも見える薄茶色の長い髪を垂らした少女がじいっと眺めている。ときおり手を伸ばしてそれらに触れたり、光に透かしてみたりする様子を、夢幻堂の店主は微笑ましく見ている。
「カンナ、お客様がいらっしゃいますよ。準備はいいですか?」
その少女に、ヨウはうしろから声をかけた。ふりかえった少女の瞳は髪の色によく似た薄い茶。やわらかい印象を持つ彼女は、ヨウの言葉にまだぎこちないながらも微笑を浮かべて頷いた。
「はい、ヨウさま」
ヨウの目の前にいるのは、傷つき消える寸前だった小さな魂の少女。けれど少女は夢幻堂に魂を留めた。それは彼女が望み、そしてヨウもそれを受け入れたからだ。
彼女は"カンナ"という名をヨウから新たに貰い、夢幻堂店主の助手としてこの場所にいる。あのときからもう、数ヶ月が経とうとしていた。そして、笑顔を浮かべられるほど、彼女の魂は救われたのである。
少女──カンナが泪を流したとき、ヨウはそばに置いてあった《淡雪の花びら》を引き寄せ、瓶のふたを開けた。そして、彼女の前にもう一度そっと差し出したのだ。
カンナはためらい、ヨウの瞳を見つめた。セツリも抱きかかえていた腕を放す。目の前の少女がなにを選び取るのかが気になった。カンナは差し出された《淡雪の花びら》に惹かれたのか、じっと見入る。
「……きれい……」
無意識に呟かれた言葉を、ヨウとセツリは安堵して聞いた。
「手にすれば、あなたは神の加護を失います。……そのうつくしい黒髪も、太陽神を映したような炎の瞳も」
神が与えた力は、彼女を彩る色として現れている。けれどすべてを浄化するということはそれらの色を失くすということだ。ヨウは彼女を縛るものを解きたいと思っていたけれど、彼女がそれを望まないなら《淡雪の花びら》をしまうつもりだった。だからあえて聞く。
少女は黙る。けれど、それは一瞬だった。まだ涙のあとが残る焔色の瞳をまっすぐヨウに向け、問いかける。
「かみさまは……、おゆるしになる?」
「力を手放すことを?」
頷く少女に、ヨウは《淡雪の花びら》を彼女に差し出したまま答える。
「神はすべてを知っています。あなたがここへ来たのは、神がその道に導いたからなのですよ。……あなたがここでなにを選び取るのか、神はとうにご存知なのでしょう」
少女は答えに悩んだのか、《淡雪の花びら》をじっと見つめて難しそうな表情を浮かべる。その隣でセツリが微妙な顔をしながら口を開く。
「まどろっこしい。分かりづれぇ。もっと単純に言えよ。困ってんじゃねぇか」
「神の心情を推し量るなどと、そんな畏れ多いこと私には到底できませんから。神がすべてを知っていること……未来も含めてという意味ですが、そのことしか伝えられませんよ」
めずらしく強い口調でヨウが反論する。セツリはつまらなさそうに舌打ちすると、体勢を変えてソファーにどっかりと座り直した。
「神の心情なんざ俺も知らねぇな。べつに知りたくもねぇけど。けど、そうじゃないだろ? こいつの聞きたいことはさ」
彼女がヨウの言葉が分からなくて困っているわけではない、と言おうか迷い、そうですね、とヨウはセツリに相づちを打つ。そのわずかな空気の変化に聡いセツリは、ヨウの言いたいことをなんとなく理解して気まずそうな表情を浮かべた。
「……悪い、俺が口出しすべきじゃなかったな」
そんなことはないと穏やかな笑顔だけで返し、ヨウはまだ《淡雪の花びら》に手を伸ばさない彼女に言った。
「なにを選んでも、神はそのことに罰を与えたりはしないでしょう。ここは魂の休息所───傷ついた魂を癒す場所で、あなたを苦しめることはないのです」