夢幻堂
その瞳には憎悪と、軽蔑の色しか映っていなかった。
「ちが」
感情を封じられてから初めて、少女の瞳に涙が浮かぶ。けれど彼らがそんなものを見るはずもない。その場にいる全員に聞こえるように、そして少女を威圧するように、大声で言い放った。
「万死に値する───神殺しの巫女よ!!」
向けられた剥き出しの怒りと憎しみに、少女の心は再び壊される。そして、恐怖を覚えた心は自由を拒み、闇に堕ちることを無意識に望んだ。
ぎゅっと閉じられていた幼い昏き焔の双眸がゆっくりと開けられたとき、少女は空虚しか映さない硝子玉の瞳でぼんやりと自分を取り囲む人々をただ見ていた。人々が口々に詰り罵っているのに、その内容が少女の耳に届くことはあっても能で理解することはもはや不可能だった。だれからも守ってもらえない少女の心は粉々に砕け散り、人として生きていくことはすでにできなくなっていた。
彼らは少女の両手足を解けないよう縄できつく縛り上げ、目隠しをした。
「神殺しの巫女は焔の鬼神に守護された娘。ただ殺してしまえば、その加護を失うやもしれぬ」
血祭りにせんと殺気立っていた彼らに静かな声を聞かせたのは、その神社の宮司であった。
「ではどうすると?」
「焔の加護を失わぬよう、この娘を人柱にすればよかろう。そうすれば我らはどちらの神も失わずにいられよう!」
人々の信頼を得ていた宮司の言葉はまたたく間に広がり、神殺しの巫女の生贄の姿を一目見んと村中の人間が神社へと集まってきた。縛られた巫女姿の少女を見て、彼らは眉をひそめて口汚く罵った。
「育ててやったと言うのに、なんという非情な………忌まわしい」
「神殺しの巫女、いや巫女などと呼べるものか。そもそも初めから生贄にしておけばこんなことには」
「宮司様の心優しき温情をあだで返しおって!」
しばらく気の澄むまで言わせていた宮司は、ちょうど人の声が一瞬途切れたころに言葉を挟んだ。村人たちは一斉にその宮司のほうを見る。
「騒ぐのはそれまでに。この娘は霊山の奥深くにある洞窟へ連れて行くのだ。あの場所はその昔、神への捧げものをするために作られた場所だと言う。この娘は神殺しの巫女だが、生贄とするならば十分な力を持っておる。決して逃げられぬよう、杭で身体を固定しておくがよい」
歓声のような、ひとりの少女の不幸を喜ぶかのような声を口々に上げ、愚かで卑しい村人たちは少女を担ぎ上げた。
行く先は、神社のすぐ横にある霊山───彼らの祭る神がおわすとされる場所。
その霊山の頂上にほど近い場所に、大きな洞窟がある。ひやりと冷たい洞窟の中は、いくつもの鍾乳洞が永い年月をかけて作られ、湧き出る水は凍えるほど冷たく澄んでいる。
その洞窟には、かつて神の怒りに触れたとき、神の加護を得た巫女を差し出して許されたと言う逸話が残っている。その逸話を知っていた宮司は、同じように生贄を差し出せばいいのではないかと考えたのだ。
異を唱えるものなどいるはずもなく、少女はすぐに村人たちの手によって担がれ、洞窟の奥へと運ばれた。
一筋の灯りさえ見えぬ暗く冷たい洞窟。そこに流れる水は、禊ぎの場にある泉と同じもの。彼女を拒み、罰を与えた神の泉と同じなのだ。けれどそんなことは彼らに分かるはずもなく、また分かったとしても容赦なくその場に縫いとめたであろう。
両手足を縛られたままで、さらにその身体の周りに杭を打ち付け、動けぬように縄で止める。さしずめ地面へのはりつけだ。幼き少女ひとりに強固すぎると感じるほどのものだったが、彼女が焔の鬼神の加護を受けていると知っているからこそでもある。宮司は目隠しをされ、うめき声ひとつ上げない少女に向かって冷たく言い放った。
「不可能ではあろうが、逃げようなどと考えないことだ。お前ひとりが生贄となれば、村人全員が救われるのだぞ。むしろ光栄に思うがいい」
少女の答えなどはなから聞こうとは思っていない。人とも思えぬ言葉を投げつけた彼らは、決して振り返らずその場を去っていった。
ちろちろと少しずつ流れる水は、地面に縫いとめられている少女の身体を責め立てる。穢れを排除するかのように、その痛みは増していき、そして清廉かつ凍える水によって体温は急激に失われていた。
意識が朦朧とする。もはや意識はほとんどないと言ってもいいだろう。そして、すでに肉体は魂が離れかけ、現世から旅立とうとしていた。
凍える冷たさはいつの間にかなくなり、代わりに心地よい眠気とあたたかさが身体を包み込んでいく。それが、自分の命の終わりを示しているのだと知るには、少女はあまりに幼すぎた。ただ流れゆく時間に身を任せ、拷問とも等しき痛みに耐え続けた。
───眠りなさい。
(………こえ、が……きこえる……)
目隠しされた少女の耳に、あたたかな声が響く。心を満たすやさしい声が、どこから聞こえてくるのか分からない。けれど、少女は幼い本能でそれにすがった。この声の持ち主ならば、ぬくもりを求められるのではないかと、無意識に感じたのだ。
少女の意識はぐにゃりと曲がり、同時にかすかに身じろぎしていた肉体はぴたりと止んだ。それは、現にあった少女の魂が、肉体を離れたことを意味していた。
ゆったりと、しかしさながら迷子のように彷徨う魂は小さく、ともすれば闇に紛れてしまうような淡い光しか放っていない。あまりに過酷な運命を背負わされた彼女の魂は、いまにも消えてしまいそうだった。
その魂に、人ならざるものがそっと手を差し伸べ、懐へ抱き込む。少女は魂の中にほんの少しだけ宿った意識でぼんやりとそれを感じ取っていた。
「人に惑わされし孤独な巫女よ。お前の魂は不思議だ。これほどまでに罪と血に穢されているのに、魂だけは清廉な水のごとくまっさらだ」
脳裏に直接響く、瑞々しくも静かな声が告げる。それがいままで自分に力を与えてくれていた焔の神なのだと、少女は本能で分かっていた。
眩い輝きを放つ橙の髪にあざやかなる黄金の瞳。現も夢幻も、すべてを照らし出す|太陽《いのち》の神。その神の加護を受けた少女は、完璧なる美しさを持った神に抱かれていた。そして、神は少女の魂になおも語りかける。
「………だが、このままではお前の魂は彷徨うだろう。果てなく続く、決して終わりのない夢幻の中で」
少女はそれでいい、と思った。届かないと思われたそれは、言葉となって神へ響く。
「それでいい。わたしの罪はゆるされることではないから。これからずっと、つぐなわなければいけない」
「お前が受ける咎ではない……本来ならば。だが、私の力を操り、人を殺めたのはお前自身であることもまた真実。神の理は変わらぬ───罪を重ねた罰を受けねばならぬ、が……それはあまりにも浮かばれぬ」
人々に|焔《ほむら》の鬼神と呼ばれ、畏れられる神は秀麗な表情を曇らせ少女を見る。
「わたしが、もっと強かったらみんなは守られた?」
「すべてを奪われ、傷付けられても、まだ守りたいと願うのか? お前が守る価値もないような愚かな人間たちのために」
「わたし、は………助けたかった」