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夢幻堂

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第五章 虹の羅針盤


 ───夢幻堂は、儚く消えゆくユメとマボロシではないのですよ。
  そこに身を置くものは、少なからずうつつを模しているのですから。

 そう言ったのが誰だったのか、夢幻堂をあずかる店主は知っていた。
 否、知らなければならなかった。夢幻と現の狭間に身を置くという、意味を。望む望まないに関わらず、降りかかってくる痛みをすべて受けとめなければならないことを。


 今日はお客が来たことを知らせる鈴がまったく鳴る気配がなく、夢幻堂にはぼんやりと平和な時間が流れている。つい最近まであまり途絶えることなくお客が続くと言う珍しい日々が続いたとは思えないほど、おだやかだ。ただ、刺激が足りないと夢幻堂に住み着いている黒猫はだらりと尻尾を垂らしながら思う。
「なぁ」
 ソファの上でごろごろしていたシオンは、キッチンでなにやらせっせと作っているカンナの背中に声をかける。ようするに暇で退屈だと言うことだ。それが分かっているのか、それともそのまま放っておくと大事な小瓶や宝石たちに被害が出ると分かっているからか、カンナは振り向かないまでも反応する。
「なに?」
「こないだ来た行商人みたいなやつ、なんか身なりのいいオッサンが」
 言いかけたシオンに脱力しながらカンナが突っ込む。
「……老紳士よ」
「うんまぁ何でもいいけどさ、そいつが持ってきた時計ってなんだ?」
 カンナの言葉は意に介さず、シオンはごろりとふかふかのソファに寝そべりながら聞く。だらんと垂れた尻尾の先がつまらなそうにぱたぱた揺れる。
「時計? ああ、あれは時計じゃなくて羅針盤よ」
「ラシンバン?」
 それはなんだと言わんばかりの声に苦笑して、カンナは動かしていた手を止める。そしてしゅんしゅんと沸いているヤカンを手に取ると、紅茶の葉を入れたポットに熱湯を流し込んだ。駱駝の形を模したティーポットカバーをかぶせ、二人分のティーカップと一緒にいつもお客を迎えている場所──とは言ってもお客がいないときはカンナたちの部屋になる──まで持っていく。待ち時間はきっかり三分だ。
「お、今日は|祁門《キーマン》か」
 お茶とお菓子の香りにつられて身を乗り出したシオンは黒い鼻をひくひく動かしながらテーブルからふんわりと漂ってくる香りに目を細めた。
「うん、烏龍茶とか茉莉花をいつも用意してるんだけど、切らしちゃったから。今日はほら月餅とかごま団子とかあるし、同じ国の紅茶にしてみたの」
 説明を耳だけで聞きながらシオンはさっと菓子の盛られた皿に手(と言うよりも前足だ)を出す。
「ふーん………お、ほえ、うふぁいな……もがもが」
 黒猫姿で菓子をほおばる姿は可愛いと言えなくもないが、つくづく器用なものだとカンナは感心する。どうせなら元の人の姿に戻って食べればよかろうに、よほど猫の姿でいることが楽なのか前足を使って器用にごま団子を挟んでもさもさと食べている。
「……褒めてくれるのは嬉しいけど、食べるか喋るかどっちかにしたら? で、これのことが聞きたいの?」
 そう言って取り出したのは文字盤が光に反射して幾重もの複雑な輝きを放つ羅針盤だ。
 つい数日前、夢幻と現の狭間にある夢幻堂に穏やかな老紳士が訪れた際、カンナが持つに相応しいと言って置いていったものだった。
「それ、中に虹が浮かんでる。そんなもの初めて見たぞ」
 口いっぱいにほおばっていた菓子を飲み下したシオンは茶はまだかと言う視線を投げ掛けながら問う。どうでもいいが、まさか紅茶も猫のままで飲むのだろうか。本物の猫になりきっているのだから当然猫舌であるはずであって、熱いものは飲めないに違いない……、とカンナは一瞬余計なことを考える。けれどもそんなことはおくびにも出さず、質問に対する答えを返した。
「そりゃ、これは《虹の羅針盤》だもの」
「ラシンバンってなんだ?」
 次の菓子に手(もとい前足)を伸ばしつつ、視線は《虹の羅針盤》に向けたまま聞く。カンナは見やすいようにそれをシオンのほうに置く。
「この針が磁石になってるんだけど、北と南を指してるの。それを利用して船舶とか航空機の方位とか進路を測るものよ、普通の羅針盤ならね」
「じゃ、これは普通じゃないんだな? そもそもあいつは何者なんだ?」
 三分をはかる砂時計の中の細砂が落ちきったのを見て、ポットにかぶせてあったティーポットカバーを取り、ポットの取っ手を持ち上げる。事前に熱湯であたためておいた揃いのカップに紅玉色をした美しい紅茶を流し込む。立ち上る湯気を何となく見ながらシオンはカンナの答えを待つ。
「あの老紳士は"流浪の行商人"よ。それ以外の名前は………いまはないわ。だけど夢幻堂を古くから知ってる人………そう、私が店主になるずっと前からこの店を知ってる希有な人物」
 カタンとポットを置きながらカンナは静かにそう答えた。
「店主になる、前?」
 もうひとつと、菓子を取ろうとした前足を引っ込めカンナを眺めやる。彼女はただいつもの通り静かな顔で、なんでもないことのような風に言った。
「私だって同じだったのよ、シオンと。シオンだけじゃなくて、ここに来るお客様と同じ……疲れて彷徨って、たどりついた場所だった」
「お前は…………お前も、還る器を失くしたのか?」
 シオンの問いに、カンナはふとなにかを思うようにきつく目を瞑ってからゆるゆると首を横に振った。シオンには分からないなにかを振り切るように。
「…………初めから、帰る場所なんてなかった。生きてる間さえ、そんなもの私には与えられていなかった。……違う、帰る場所どころか、私の手にはなにもなかったの。…………命を奪う以外、なにも」
 シオンの息を呑む声が、やけにはっきりと聞こえた。


 神殺しの巫女。
 それは、まだ幼き少女に付けられた名。いや、名などではない。もはやそれは畏怖の念を込められ、刻み込まれた蔑称だった。そうなるよう仕向けたのは彼らだっただろうに、少女に抗うことは赦されていなかった。
「さあ、巫女様───討たれなさいませ」
 形ばかりの敬称と立場。少女はそれを分かってはいなかった。分かる前に、すべての感情は封じられてしまったのだから。
 身の丈よりもはるかに大きい弓をかかえ、空虚な瞳でひたりと相手を見据える。寸分たりとも乱れはなく、放たれた弓矢は紛うことなく心の臓を穿つ。途端───、ごうっと凄まじい轟音とともに紅蓮の炎が舞い上がった。
「では巫女様、祝詞を」
 祝詞とは名ばかりの、死の旋律。つむぎだされる言ノ葉は、業火を躍らせ、旋風を煽る。それは留まることを知らぬかのように、火の海と化す。戦いをけしかけてきたものは苦痛の叫び声を上げながら逃げ惑い、けれど逃れられずに朽ちていく。おぞましいその光景を、少女は眉一つ動かさず、そして微動だにせずただ見つめていた。彼女の生み出す|焔《ほむら》の色と同じ───否、身体中をかけめぐったあとの血のような、深い紅の瞳で。
作品名:夢幻堂 作家名:深月