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夢幻堂

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 そう、告げる。紫苑の目を見開いた彼に、カンナは付け足す。
「《血薔薇の剣》はその香りが一番好きだから。血に濡れた者──殺された者ではなくて、自らを血で汚した者が」
 やるせない視線をシオンに向ける。その背にいままで黙っていたスミレが「ねえ」と声をかけた。
「カンナだっけ?」
「……そうよ」
「アンタ聞いたよね? アタシに」
「ええ、|予知夢《ゆめ》の中でね」
 視線をスミレに戻すと、ぎらぎらと熱を帯びた眼がカンナをじっと睨みつけるように見つめていた。その眼光は強いものなのに、どこか黒く濁っているように見える。
「夢? 夢なんかじゃない、現実だよ。アンタも同じこと言うの? だってアンタはそうねって言ったじゃん! やさしい声で、そうねって、いらっしゃいって言ったのはアンタの声だったよ!」
 折り曲げていた膝を戻して、バネのように跳ね上がってスミレは反論する。十七と言う年の割にはずいぶんと幼い行動だった。いまにも飛びかかりそうなスミレに、さっと黒い影が横切る。
「シオン!」
 スミレとカンナの間に立ちはだかったのは黒猫姿を解いて元の姿に戻ったシオンだった。黒猫姿のときと同じつややかな黒髪が動いた衝撃で揺れ、葡萄と新緑の瞳はまっすぐスミレを捉えていた。
「カンナに手ぇ出すな。べつにあいつはお前のことを非難したわけじゃないだろ。カンナは自分の|予知夢《ユメ》の中でお前と会ったんだろ。お前にとっちゃ現実なのかもしれねぇけど」
 白く華奢すぎるスミレの腕をがっちりと掴みながらシオンは抑えた声で牽制する。その変貌を、スミレは叫ぶでもなくただじっと見ている。けれど、状況を理解したのかようやく掠れた声を出した。
「アンタ……人間?」
「もともとはな」
「……ふうん……、人間にもいるんだ、オッドアイ」
「オッドアイ?」
「右と左で目の色が違うことだよ。そんなことも知らないの? ねぇ、シオンはなんでこんなとこにいんの? あ、カンナのことが好きだから?」
 矢継ぎ早にまったく脈絡のない質問をされ、面食らう。同じような年頃の人間と話す機会など皆無だったからどう返すのが正しいのか分からないのだ。シオンが黙ったままでいると、スミレはにこぉっと可愛く笑って顔を覗き込んでくる。
「好きなんだ?」
「……違う、俺はここで拾われたんだ。カンナは俺の恩人で」
「えーでもアタシからこんな風に守るのは好きなんじゃん。ラブじゃん」
 からかっているのかどうなのか、スミレはただ嬉しそうに笑いながらシオンを見つめる。普段のシオンはお客になにを言われても放っておく場合が多いが、今回ばかりは反吐が出ると言わんばかりに舌打ちして怒鳴る。
「お前がそんなもの持ってないならとっくに放してんだよ! 俺だってそんな気持ち悪いイレズミ持ってるやつに触りたかねぇんだ!」
 小さいけれど、確実に鋭く研がれた刀がにこにこと微笑むスミレの手に握られている。|表情《かお》だけは笑って、目だけは濁っているのだ。白塗りをしたピエロのようで薄気味悪いとシオンは思ってスミレを睨む。
 イレズミは《血薔薇の剣》なのだとさっきカンナから聞いたばかりだ。
 こいつは相当な血を吸ってきたのだろう。スミレに触れるだけで嫌な波動が自分の躯の中にも入り込んでくるような気がする。
(………気持ち悪い)
「シオン、手を離して! あんたは|同調《シンクロ》しやすいのよ!」
 なんだそりゃ、と言いかけたシオンは躯の中に侵入してくる気が狂ってしまいそうな波動を感じ、思わず手を離す。それは本能だ。カンナがなにも言わなくてもシオンはスミレの腕を離しただろう。幸いだったのは乱暴に離したせいで持っていたナイフが落ちてしまったことだ。運良くカンナの足下に落ちたナイフを拾い上げると、それをしまう。
 抵抗するすべを失ったスミレはしょんぼりと項垂れて、ふかふかのソファに沈み込むようにしゃがんだ。
「…………目を」
 長い沈黙のあと、ぽつりとスミレが言った。シオンはつい聞き返す。
「え?」
「目を覚ませって言うんだよ。幻想だって」
「だれが?」
 スミレの言葉は要領を得ない。シオンは警戒を解かないまま問う。けれどスミレからさっきのような激しい感情は見当たらない。今度は逆にこの世の終わりような虚ろな瞳で、ぼんやりとシオンを見上げていた。
「だれ……? 分かんない、けど」
「なんでそう言われたのかも分かんねぇのか?」
 詰問する口調をゆるめないまま、シオンはカンナを庇うように立ちながら言う。
「違うよ! 幻想なんかじゃないし、アタシはちゃんと正気だよ!」
「分かんないだろ、そんなこと。なにが現実でなにが夢かなんて。ここは夢と現の狭間なんだから。それにいまのお前は正気には見えない。ナイフを持ってだれかを殺そうとするのが本当に正気なのか? 違うだろ」
 たたみかけるようにシオンはスミレを追い詰めていく。カンナが自分の腕を軽く引っ張るのが分かったが、さっき感じた自分を呑み込んでしまいそうな気持ち悪い波動がまとわりついているようで、それを振り払いたくて無視していた。
 スミレは自分を否定してくるシオンに一瞬動きを止め、ぐるんと顔を上げる。その眼はぎらぎらとなにかに飢えている猛獣のようだ。そしてそれが一瞬、どす黒く淀んだ|紅《あか》に変わる。
 シオンが身構えるのと、スミレが全身を使ってシオンめがけて腕を伸ばしたのとは同時だった。すさまじい勢いのままシオンの首を捉えると、うしろにいるカンナをも巻き込む勢いで押し倒し、馬乗りの状態でシオンの首に力を込める。
「シオン! スミレ、シオンを放して!」
 カンナの慌てた声は、なにも見ていないスミレには届かない。ぎりぎりと締め上げていくスミレに、カンナは腕を伸ばしかけ───シオンに止められる。手を出すなと言いたいのだ。心配そうなカンナに少しだけ笑ってみせた。けれど、スミレの手にさらに力が加わり、思い切り大きな声で怒鳴る。
「アタシは間違ってない! あいつなんかいなくなったほうがいいんだから! ほら見てよ、こんなにキレイなのに」
 目を吊り上げて、それなのに唇は笑顔をかたどって、健康的な白い歯が見えている。顔色は悪くはないけど、よくはない。なのに歯だけが異様にキレイでそのアンバランスさがぞわりとさせられる。「キレイなのに」と言い切ったスミレの表情になぜか魅せられて、首に触れられた手から感じる《血薔薇の剣》の感覚に引き寄せられて、気持ち悪いのにそれが心地いい。そんなのは変だ。分かっているのに抗えない。吐きそうなほどまとわりつく血の香りに、おそろしく酔ってしまいそうだ。
(ああ───トリップ、か…………気持ちいい)
 無意識に思う。そんなのはだめだと心の奥では叫んでいるのに。
「シオン、だめ!!」
 明らかなシオンの変化に、カンナは悲痛に叫んだ。カンナがスミレの腕を剥がそうとする。身をよじって抵抗するスミレの腕にある血薔薇のイレズミがおそろしいほど美しく見えた。凄絶に散る血色の花弁───狂った深紅の色にシオンは躯ごと惹き付けられるのが分かる。
 抗うことのできない、甘美な誘惑。
「あいつはね、腐ってるんだよ? だからアタシがセイサイしてやんなきゃ、殺されちゃうんだ」
「……制、裁?」
作品名:夢幻堂 作家名:深月