夢幻堂
第四章 血薔薇の剣《つるぎ》
アタシの躯にはイレズミがある。
キレイで、なににも穢されなんかしないたったひとつの宝石。
それさえあればあとはなんにもいらない。
「幻想だよ」
「違うよ」
「そうだよ。どうして分かんないの! さっさと目を覚ましなよ!」
「違うよ! 目を覚ますのはアンタのほうだよ!!」
分かってくれないなら要らない。アタシには必要ない。キレイでアタシだけの宝石があればいい。
───本当に?
やさしい声が|宙《そら》から聞こえた気がした。言ってることはやさしくないけど、アタシに問いかける声はすごくやさしかった。
「ホントだよ。ホントだもん」
だから、どうしてかアタシはだだっ子のようにそう繰り返した。そうでなければ、アタシ自身が間違ってるって言われそうで怖かったから。でも、その声はそんなことは言わなかった。ただ、ちいさく「そう、そうね」とだけ応えてくれた。それがどうしてか嬉しくて、安心して、涙が出た。
「あれ……なんで泣いてんだろ……」
そんな声、聞こえるのが幻想なんだって言うけど、そんなことない。でもアタシはいま独りだ。どうしようもなく、独りだ。
血の色で描かれた薔薇だけが、ひっそりとアタシの躯に刻み込まれて、それだけがそばにいてくれる、アタシだけの宝石。
───おいでなさい。
また、響く。やさしい声が。アタシはそれから逸らしたくて、でもできなくて声の続きを求める。
───つかれたときは、休めばいいの。
だから、いらっしゃい………へ……
(なに、聞こえないよ……)
「どこ……?」
───いらっしゃい、現と夢の狭間に在る夢幻堂へ。
おそろしくやさしい声が、アタシを静かに|誘《いざな》った………気がした。
「これからお客様が来る予定だから」
突然そんなことを言われたシオンは、猫の姿のままぱちぱちと何度か瞬きをしてカンナを見つめる。お客が来るのは店を構えているのだから当たり前と言えば当たり前なのだが、この夢幻堂と言う店は『少し』変わっていて、お客が来るのは予測不可能───のはずだ。少なくともシオンはそう理解していた。
「……予定?」
「|予知夢《ゆめ》で視たのよ」
カンナに不思議な力があるのはシオンも知ってはいる。けれど、それがどんな力で、いつ発揮されているのかまではカンナが話さないから知らなかった。ただ、知らなくてもシオンにとっては困らなかったから聞いてもいない。
「ふぅん。で、お客が来るから俺はどうすりゃいい?」
「気をつけて。……呑み込まれないように」
「待てカンナ、意味が分からない。俺に分かるように話せ」
薄紫と薄緑──紫苑の瞳を持つ黒猫が、夢幻堂の店主カンナに詰め寄ろうとしたその瞬間、ピリ、と空気が変わった。
「!?」
───チリン。
来客を知らせるためのベルが鳴る。それがなぜだか不吉の余興を示しているかのようで、シオンは珍しく身震いをした。
「だれが来るんだ、カンナ。この気持ち悪い波動はなんなんだ!」
「お客様よ」
厳しい顔でそうとだけ言って、店の取っ手に手を掛ける。それはカチャリと軽快な音を立てて開いた。
「ようこそ、夢幻堂へ」
いつものように、すべてのお客をやさしく迎え入れる声でカンナは言った。
「その声……アタシを呼んだ、あの声?」
カンナを見つめた少女は目を見開いて、そう問い返した。
「そうよ。ここは現と夢の狭間にある休息所、夢幻堂。私は店主のカンナ」
言いながら夢幻堂へ辿り着いたお客を中へ入るよう促す。こわごわとあたりを見回しながら入ってきた少女は、人に戻ったシオンよりも少し年上に見えた。ふかふかのソファに座らせると、シオンは距離を取って貴石やさまざまなボトルが立ち並ぶ棚へと移動する。
「あの黒猫は?」
「シオンよ。私を手伝ってくれてるの。あなたの名前は?」
「………スミレ。年は十七」
「お前、その腕になに持ってんだ?」
「イレズミだよ。見る? すっごくキレイで、アタシの宝石だよ」
よく分からない返しをされ、シオンは渋面を作った。
「宝石?」
うん、と嬉しそうに返したスミレは袖をまくって肩の下あたりに彫られた入れ墨を誇らしげに見せた。
そこにあったのは深紅の薔薇。
とろりと粘ついた血が滴りそうな、深いくれないの色。
シオンはめまいを覚え、それから目を逸らす。ものすごく嫌な気分だった。
「……それは」
カンナが言葉を失い、血色をした薔薇を凝視している。けれどスミレはにこにこしながらそんなことを言っていた。
「コレ、彫ってもらってからすっごいツイてるんだぁ」
「うそだ!」
シオンは反射的に叫んだ。カンナは少し驚いた顔でシオンを見た。
「それから気持ち悪い波動が出てる。さっき感じたのはそれだ。なぁカンナ! こいつは本当に客なのかよ!?」
「言ったはずよ、シオン。夢幻堂へ訪れるのはすべて休息を求めたお客様だと。彼女は……れっきとしたお客様よ」
「じゃあ、あれはなんだよ?」
「………私の記憶が正しければ、《血薔薇の剣》──蘇るはずのなかった、もの」
シオンの視線を逸らすように俯きながらカンナが答える。
蘇ってはならないもの。
人の弱さが作り出した、悲しき逸話の|剣《つるぎ》。
「一度封じたのに、いつの間にか私の手から離れてしまった。それがなぜなのかは私にも分からないの。だけど彷徨っていた魂へと宿ってしまった……あれは災いしか呼ばないのに」
「それはなんだ? なんでそんなものが夢幻堂にあるんだよ?」
シオンはさらに問う。スミレはにこにこと笑いながら薔薇の刺青を見ている。ソファの上で足を折り曲げ、手で抱いている。体育座りのように。こちらの話など、はなからないものとしているかのようだ。それは異様に映る。少なくともシオンにとってはそう見えた。
カンナは薄茶色の瞳で少しだけ厳しい視線をスミレに向ける。
「かつて英雄と謳われた男が、数多の血で濡れた剣に魂を奪われ、自分の心臓を貫いた。……血を求め、紅い薔薇のごとく染め上げる剣、それが《血薔薇の剣》──英雄の胸に散った血が美しい薔薇のようだったから付けられた名。私では浄化することができないから、封じていたのに……血の匂いに惹かれてどこかへ行ってしまったの」
夢幻堂の中は変わらず静かであるのに、いつも漂っているような穏やかな空間は存在しない。スミレに刻まれた血薔薇の刺青が発する淀んだ空気に冒されていく気がする。だが、シオンは納得できない。スミレは剣など持っていない。
「けどあいつはイレズミだって」
「刺青はただの媒体よ。《血薔薇の剣》は姿を変えるの。あれを呼び寄せるのは強い正義と狂気……ある意味では正義でも、見方を変えたら殺戮者でしかないわ」
謎かけのような答えに、シオンは逡巡する。けれど結局カンナへ視線を戻して問いかけた。
「じゃあスミレはなにを正義だと思ってんだ?」
カンナはためらう。だが、答えないわけにはいかない。こうしている間にも、本来、夢幻堂に持ち込まれてはならない負の波動がどんどん浸食していくのだ。休息所とあるべき場所に、こんなものは在ってはならない。
「………殺しよ」