夢幻堂
番外編 ある日の午後
「カンナー。……おい、カーンーナー?」
珍しく返事のないその店の店主に、黒猫がきょろきょろと探しながら名前を呼ぶ。
「……寝てるのか」
シオンと言う名を持つ黒猫は、カンナ専用の柔らかいソファの上で寝息を立てている彼女を見て少しだけ驚いた声を出した。
夢幻堂と呼ばれるこの店は現ではない場所に佇み、肉体を持たない魂が辿り着く休息所。とは言え、お客が来ることはそう多くはない。その店主であるカンナは、まだ小さな少女の姿を保ったまま、薄茶色の長い髪を垂らしながら珍しく眠りに落ちていた。
シオンはそのカンナに拾われ、普段は黒猫の姿を保ちながら住んでいる。
シオンはするりと音もなく少年とも青年とも言えない人の姿に戻ると、薄紫と緑にも青にも見える美しい二色の瞳でカンナに上着をかけてやる。
「……俺は、うっすら覚えてるんだ。魂の存在しかなかった俺を、お前が拾ったあの日のことを」
めったに聞かせない柔らかい声音で、カンナの長い髪を遠慮がちに梳きながら呟いた。シオンがこの店に居着くようになったのはそう昔のことではない。けれど、なぜか拾われたときやそれ以前の記憶はほぼないに等しい。その中で唯一おぼろげに覚えているのが、カンナが魂の存在であった自分に話しかけ、拾った瞬間だ。ただ、カンナはシオンを傷つけまいと思っているのか、そのときのことを話そうとはしない。
今日もお客が訪れる気配のない夢幻堂には静寂が降り立ち、わずかな吐息や衣擦れの音さえも大きく響く。
戸棚に置かれた様々な小瓶や小箱の中にはカンナが集め、時にはお客の願いを叶えるために使う薬やら貴石やらが並べられている。それらは夢幻堂店主であるカンナだけが分かる 位置に置かれ、一つ動かそうものなら怒声が飛んでくる。シオンは悪戯心にそれらで遊んでいたら、料理していた包丁を持ちながら追いかけられたと言う過去がある。それ以来、決して動かすまいと心に誓ったものだった。
そのカンナもいまは疲れたのか、髪を梳くシオンにも気付かない。あまり眠る姿を見られない主の姿に、ほんの少し安堵を感じて高くも低くもない心地よくくすぐるような声音で囁く。
「だから……いつか答えてくれよ。俺が誰なのか。なんでお前は俺を助けてくれたのか……」
夢幻堂の中にしん、と静寂が戻る。
いつの間にか黒猫姿に戻ったシオンは、眠るカンナの傍らで体を丸め、二色の双眸を閉じて眠っていた。
お客のこない店の中、穏やかすぎる緩やかな時間に身を任せながら。