夢幻堂
きっと、愛された人たちにではなく、欲にかられた愚かなものたちに。どんなに恐ろしいことだったろう。たった一人で、助けを求められないまま痛みを抱えるのは。
「じゃあ……愛されてなかったわけじゃなくて」
「……そうね。きっとこの子の両親は深く深く哀しんだはずだわ」
そう言ってマナの瞳からぽたりと零れ落ちた涙に触れた。そこから流れ込んでくる哀しみはマナのものではなく、彼女を愛したものたちが流した涙なのだとカンナだけは知ることができた。
「泣かないで、シオン」
「泣いてねぇ。勝手に流れてきたんだ」
マナにそうしたように、カンナはシオンの頬を伝う涙をゆっくりと拭っていく。それを払いのけることはなく、ただじっとされるがままになっていた。喪われていいはずのない尊い命が、目の前にある。それを違う場所へ送り出さなければならないことが、シオンの胸を詰まらせた。
「ねぇシオン、あれを取ってきて」
シオンの黒髪を撫でながら、優しい声音で言う。
「………あれ?」
「さくらを返したときにもらった首輪があるでしょ?」
いつだったか、もうとうにひと月は経ってしまっただろうが、迷い込んできた小さな|黒猫《さくら》の魂からもらったもの。
「……《蒼い月の涙》のことか?」
「この子に使うのよ。この子と、この子を愛した人たちにね」
シオンは小さく頷くと立ち上がり、仄かに淡く蒼色に煌めく石が入れられた小さなガラス瓶を手にする。それは、もともとさくらの首輪にはめられていた美しい石だった。
蒼い月の涙──それは、蒼い月が流した涙が、形を成して地上へと零れた貴石。そして哀しみで零れたその貴石は、いつしか哀しみを癒す貴石となったのだ。
「これで癒されるのか?」
差し出された《蒼い月の涙》を受け取ったカンナは、それを取り出しながらほんの少しだけ辛そうに微笑んだ。
「心の傷をすべて癒すことはできないわ。だけど……ひとときの幸せな夢を見せることはできる」
「夢?」
「そう、夢。それはたったひとときでしかないかもしれないけれど。優しい月の光は、静かに、ゆっくり心に染み渡って心を慰撫してくれるから」
マナを腕の中であやしながら、《蒼い月の涙》をコトリと目の前のテーブルに置いた。
「ちょっとだけマナを抱いてて」
ソファに座り直したシオンの膝にマナを乗せ、同じ場所に置いておいた《女神の宝珠》に付けられていたチェーンやらを外す。それを《蒼い月の涙》へと付け直し、ネックレスをしあげた。
「にぃちゃー」
嬉しそうにじゃれつくマナを、戸惑いながらもちゃんとあやしているシオンにカンナはふふふと微笑う。
「できたわ。マナの綺麗な目の色に似合ってるね」
首から《蒼い月の涙》で作られたネックレスをかけてやる。彼女を送る時間がすぐそこに迫っていることを知る。
「……眠りましょう、マナちゃん。優しい夢に囲まれて、たくさんの愛に囲まれて、きっと素敵な夢を見られるわ」
それは贈る言葉。カンナからマナへの、どこまでも優しい予言。
「かんにゃ、にぃーちゃ」
伸ばされる手を握り、カンナはふわりと笑う。シオンは言葉の代わりにやわらかな頬と、小さな頭を撫でた。
「おやすみ、マナちゃん」
カンナが母親のそれのように優しく額へキスをする。もちろんそれは力が込められていて、マナの瞼はゆっくりと閉じられ、ふわふわと夢の世界へ旅立っていく。
幼子の姿はだんだん薄れていき、代わりに水色をした小さな魂が姿を現していく。それもだんだんもっと深い蒼に呑み込まれ、ふっと夢幻堂から姿を消した。
……旅立ったのだ、遠く高い空へ。
きっとそこで幸せな夢を見るだろう。
「あれは戻ってこないのか?」
マナがいなくなってがらんとした夢幻堂に淋しさを覚えながら、シオンはソファに座ったまま聞いた。
「哀しみが癒えたとき、還ってくるわ。あれはそう言う貴石なのよ」
手元に還ってきた《女神の宝珠》をぎゅっと握りしめながらカンナは答える。痛みを伴ったとしても、マナが笑顔を取り戻したとき、そしてマナを愛したものたちがマナの笑顔を思い出せたときにきっと。
彷徨う魂も、還る場所を喪った魂も、すべてを迎え入れる夢幻堂は永遠に変わらず在る。
夢幻と現の狭間に、変わることなく。