オリーブの枝
「あとどれくらいかな」
「さっきも言ってたね」
「あとどれくらいで死ぬのかな」
さらっと彼女は言った。彼女も自分を他人事のように見ているようだ。自分がいずれ死ぬことに実感が湧いていない。
「あなたはこの階に来たの先週でしょ」
「うん」
「私は1年前」
「へぇそんな昔から」
1年間もこんなところにいたとは、さぞ暇だっただろう。
「ここに来る前は、下の階でずっと入退院を繰り返してた」
「そっか、ずいぶんと重いね。俺は7階に来る前は、地下1階にいたんだよ」
「地下1階から来たんだ」
それを言うのは初めてだった。下から上がってきたとは言っていたが、地下1階と言ったのは初めてだ。
「地下1階には保護室がある」
「そう、そこにいた」
「危ない人」
そう言っている割に怖がる素振りはしなかった。興味がないのだろう。
「あそこはひどいね。保護室って聞くと、なんか優しい感じを受けるけど、ほとんど留置所だよ。冷たいタイルの床に、重い鉄の扉、窓の替わりに鉄格子」
言葉を並べていくうちにあの頃の情景が目に浮かんできた。
「部屋にあるのは一組の布団と、和式便所、あと一回分のトイレットペーパーとペットボトルの水。たったこれだけ。実に殺風景で、重々しい雰囲気だったね」
「それは大変ね」
「まぁ数え上げればキリがないが、いいこともあったぞ。他の患者と簡単に会話ができるんだよ。保護室は横に5室くらい並んでいるから、声を出せば鉄格子沿いに会話ができるんだ。あれはよかった、あれがなかったら正常でいられなかったなぁ。看護師はみんな特別な目で見てきて話になんないからな」
「どんな話をするの?」
「悩みや不満を言い合って、時には励まし、時には慰めあったりした。あいつらは、今でも仲間だと思ってる」
「仲間……」
彼女はぽつりと言った。何か心情に変化があったのだろうか。聞き慣れない言葉を聞いたようなリアクションだ。
「そう、仲間だよ。仲間はいいもんだよ」
「私には……いない」
そのとき、彼女の表情が少し変わったように見えた。少し憂いを秘めたような、そんな風な表情。言い方はいつもと変わらないのに。
「仲間が欲しいの?」
彼女は黙っている。少し下を向いていた。
「じゃあさ、俺たちも仲間になろうよ。この階でできた初めての友達」
そう言って、手を握った。
「あ……」
彼女は小さく声を漏らした。その手は少し震えていた。冷たい手だ。
「こんなしがないところに1人でいたんじゃあ、気が狂っちまうよ。せめて話相手がいたほうがいいだろ?」
窓の隙間から吹く風が彼女の髪を揺らし、体に触れる。一瞬時が止まったように感じた。
「……うん」
ぎこちなさそうだがはっきりと頷いた。握った手を握り返している。そんな彼女を見たとき、何か心を動かされるものがあった。真っ白な世界に1色の色が足されたような、そんな気分。
かくして、物語は始まる。それは、2人にとって決して長い時間ではなかった。