ライドガール
「あんたんちの馬って、何頭いるの?」
「さあ、正確なところはな。五〇〇頭よりはいるか。一〇〇〇頭まではいかないにしても」
来なければよかった、という思いがむくりと頭をもたげた。リウはありったけの意地をかきあつめて、それを押さえつけた。
「ため息も出ないよ。うちとは違いすぎて」
と、カズートに笑ってみせたが、ちょっとばかり口端がひきつった気がした。
「まだここは入口だ。あの丘を越えるぞ」
丘を越えた下り坂の先には、柵で仕切られたいくつかの牧と厩舎があり、近くに長屋と白木の家が並んでいた。丘の上からはおもちゃの家のように見えたそれらは、近づいてみると近くの町の公会堂よりも堂々とリウの前にそびえ立っていた。
馬車を止めたカズートに、ブーツを履いた少年がすぐさま駆け寄ってきた。
「お帰りなさいませ、カズート若さま」
カズートはじろりと横目にリウを見た。
そのまなざしが投げかける無音の言葉はわかっている。リウは大真面目な顔で答えた。
「ご心配なく、からかいませんとも、カズート若さま。だって当たり前のことじゃない、カズート若さまが自分の家の人にカズート若さまって呼ばれるのは」
「……やめろ」
カズートはむすっとしたまま、少年に馬車を片付けておくように言いつけた。
「あと、こっちの馬の世話もだ。気をつかってやれよ」
「かしこまりました、カズート若さま!」
少年にバルメルトウの手綱を預け、リウはさっさと歩き出していたカズートに並んだ。
カズートはリウより頭ひとつ近く背が高い。しかも手脚の長い体つきで、歩幅も広く、速い。リウは少し急ぎ足になる。ほとんど背が変わらなかった昔が遠く思い出された。
「ちゃんと呼んでもらえてるってことは、ごくつぶしの五男坊ってわけでもないんだね」
「そんなふうに言うのはおまえだけだって、ずっと言ってんだろ」
「だって、しょっちゅううちに来てたから。家にいづらいのかなって心配してたんだよ――ちょっぴりね」
カズートが眉をあげた。
「そんな気持ちがちょっぴりでもあったなんて驚きだな。人を見ればごくつぶしだの暇人だの目つきが悪いだの、好き勝手言ってくれてたやつが」
「変わり者だの馬ばかだの男おんなだの、好き勝手言ってくれてたのはそっちも同じ。それに、残りは本当のことじゃない。うちで暇つぶししてたのも、あんたの目つきが悪いのも」
リウは行く手を見ながら答える。
「だから、ちょっぴり心配してたのも本当。一年前いつもどおりに帰っておいて、それっきり急に来なくなっちゃったし。もしかして、ついに家を追い出されたのかもって思って」
「いろいろあって長引いたんだよ」
「なに? 商談?」
「だからいろいろだよ」
「そう……まあ追い出されてなくてよかったよ。――あ、種付相手ってあの子?」
カズートにさらに尋ねることはせず、リウは行く手の柵の近くにいる馬に駆け寄った。
立派な馬格の黄褐色の馬で、目の前をひらひら舞っている蝶に興味があるのか、じっとしたまま鼻先だけを伸ばしている。体格とは裏腹に、見るからにのんきそうな馬だった。
「馬違いだ。大体、そいつは牡だぞ」
「だね。ふふ、でもかわいい子だな。あんな変な顔しちゃって」
「面白そうなやつだよな。おれだったらもらっとくんだが」
「誰かが売りに来た馬なの?」
「こいつの母馬に、四番目の兄貴の持ち馬をつけたんだ。牝だったらむこうの牧に残して、牡だったら買い上げる約束だったんだが、兄貴じゃたぶん――まあいい、行くぞ」
「ん」
あっ、という小さな声がした。この馬を連れに来たらしい。引き綱を手にした褐色の髪の青年が、リウを見つめている。
そんな青年を見たリウも表情を消した。
「……なんだ?」
カズートが目を細めて聞いた。
リウはぎこちなく笑った。
「ん、知り合い。こんなところで会うと思ってなかったから。――久しぶり、シャルス」
「――ああ、久しぶりだね、リウ」
ぎこちない表情は、相手も変わらなかった。
「……どうするんだ? 旧交をあたためたいなら、そうしてもらってかまわないぜ」
カズートは歩き出した。
「天馬を見に行くよ、もちろん」
リウはあわてて後を追った。
それでも自分の背中を見つめる青年の視線は、痛いほどわかっていた。
青天馬となった牝馬は美しかった。揺れるたてがみは透きとおるようで、牝馬らしい繊細さと天馬の称号にふさわしい力強さが、輝く馬体に違和感なく溶け合っていた。
「……この子はお嬢さまだね。この大牧の大事なお嬢さま」
リウはため息をついた。
「それに、すごい美人。圧倒されそう」
カズートがにやりとする。
「ま、たしかにこいつには手をかけてるからな。朝のおめかしの時間なんか、どうせ顔を洗って終わりのおまえより絶対長いぜ」
「言い返す気もしないよ。専任の牧童がいるの?」
「こいつにかかりっきりになってるのがひとり、他の馬も一緒に見てる補佐が三人かな」
「はー……もうお姫さまだね」
「今回のがうまくついたら、本物のお姫さま行きだ」
「王様にあげるの?」
「いや、南部の伯爵だ。四番目の兄貴がそこの姫と婚約してるんだ」
雲の上の世界を垣間見た気がして、リウはまたため息をついた。
柵の周囲に男たちが集まってきた。皆一様にブーツを履いているが、その服装はさまざまで、磨き上げた新品から乾いた馬糞がこびりついた古靴まで、ブーツもいろいろだった。
その中心にいた恰幅のいい若い男が、こちらを見た。
「なんだ、カズート。出かけたんじゃなかったのかい」
ひとりだけ明らかに金額の違う身なりだった。
「こいつを迎えに行ってたんだよ」
男の顔がリウに向いた。無邪気さを装った鋭い目が、全身を露骨に眺めた。
無言の疑問に答えようと、リウはあいさつした。
「はじめまして。ランダルム牧のリウです」
「ああ! カズートの友達の、あの」
男はわざとらしい声をあげた。
「まったくおまえは、悪趣味な上に考えなしなやつだな、カズート。仮にも若い女性に馬の種付を見せるなんて信じられないよ」
「見せるのは天馬のほうだ。どうせ奥の牧には入れてくれないだろ、ダールグ兄貴は」
「当たり前じゃないか、部外者なんか入れてなにかあったらどうするんだ。これは僕の婚約者への大事な贈り物なんだぞ」
やっぱり、とリウは内心納得する。
南部の伯爵姫と婚約したというカズートの兄だった。しかし弟と似ていると言えるのは上背と黒髪くらいで、同じ切れ長の目もとも雰囲気がまったく違う。
「ふうん、だから種付で出してきたところをねらったのか。友達に天馬を見せたいなら、こそこそ人の隙をうかがわないで、堂々自分で勝ち取ってからにしたらどうなんだい」
「それじゃ遅いんだよ。こいつが出るのは、今年の〈天馬競〉だからな」
「この子が〈天馬競〉だって!?」
ダールグは芝居がかった仕草でリウを真っ向から指さした。
「ああわかった、思い出作りに出るんだろ。まさかきみ、勝てるとは思ってないよね?」
「……勝つつもりですけど」
「え、なんだって? 聞こえなかったよ」
だから、とリウはもっと大きな声を出そうと息を吸いこむ。
と、カズートが割って入った。