ライドガール
二 天馬の牧
ランダルム牧に戻ったリウを迎えたのは、父の皮肉と母のため息だった。〈天馬競〉の結果など聞かれもしなかった。
リウも報告はしなかった。バルメルトウを休ませ、それから数日のあいだ、残していった他の馬たちの世話に集中した。両親にこれ以上苦情を言わせるつもりはなかった。馬房の掃除をし、馬たちの体を拭き、櫛を入れ、ほったらかしにしたお詫びにたてがみもきれいに梳いて編んでやった。仕上げに金槌と釘も持ち出して、厩舎の屋根の修理もした。
「あー、さすがに疲れた」
リウはバルメルトウの馬房の前に座って去年の干林檎を囓った。
と、顔のすぐ横に黒い鼻面が突き出てくる。
「おまえは疲れなんてとれたよね、バルム」
リウはもぐもぐと物欲しげな口もとをなでてやり、林檎の残りをやった。
「わたしも、カズートのおかげでゆっくり眠ってこられたからよかったよ。そうでなかったら、さすがに戻ってきた最初の日は動けなかったと思うもの。小言を言われる日が一日減ってくれただけでも、助かるよね」
リウは喉をのけぞらせて顔を上に向けた。
「……バルム、どうしようか?」
別れ際、カズートはイシャーマ牧に来て天馬を見るよう誘ってくれた。一昨年の青天馬の種付があり、しかも相手は何年も前に牧から初めて出した銀天馬とのことだった。
今日がその日になる。
リウはこれまで一度もイシャーマ牧に行ったことはない。イシャーマ牧が作るのは軍や貴族、国王が使う高級馬で、常に〈大天馬競〉での勝利を目指す大牧である。軽量荷馬、せいぜい馬車馬か乗用馬として買われていく程度の馬しか作っていないランダルム牧とは、同じ牧とはいってもまったく違う。たとえ見たところでしょうがなかった。
だが〈天馬競〉で勝たねば廃業、バルメルトウの命すら危ういいまは違う。実際に〈大天馬競〉に勝利した天馬を見るだけでも、なにかの参考にはなるかもしれない。
「……でもな」
牧童同然の服に綿の風防布。以前は実家をまったく感じさせなかったカズートの、いまの絹スカーフ姿がちらついた。
「気が進まないんだよね……そこまでカズートに甘えていいのかなって思うし、それに」
〈天馬競〉に実際に出るようになって、リウは改めて勝つことの難しさを知った。だからこそ、やすやすと勝利を手にしているイシャーマ牧とそこの馬を見ることは――
「……怖い、んだ」
リウはため息とともに自分の感情を認めた。
「そんなことじゃいけないって、わかってる、わかってるよ。だけど、わたしじゃ絶対に無理なんだって思い知らされることになっちゃったらって思うと」
これまで牧で生きてきたリウは、自分の世界を守る手段を〈天馬競〉以外に持っていない。そのわずかな可能性すらつぶされてしまっては、抗う気力すら失ってしまう。
そのとき、リウはランダルム牧の廃業を呆然と眺めることしかできなくなる。柔らかにうねる緑の稜線、北の丘の上の二本の木、草の間を流れる水路、そうした風景の中を駆ける馬たちの姿。これまでリウの世界だったものが失われていくさまを。
バルメルトウが、リウの胡桃色の髪に鼻先をくっつけ、前脚で地面をかいた。
「なに、遊びに行きたいの? じゃあちょっとあたりを回ってこようか」
リウは立ち上がり、人の心が読めるかのような愛馬の頬をなでた。
「……そうだよね、もやもやしてるときは、走ってくるのが一番だよね!」
バルメルトウを引き出して馬具をつけていると、一頭立ての小型馬車が道をやってきた。
ひとりだけ乗っている御者もリウに気がついた。彼は馬の尻を打って速度をあげ、そして驚いて目を丸くしたリウの前で止まった。
「カズート。どうしたの?」
やはり絹のスカーフをつけていたカズートは、あきれ顔でリウを見下ろした。
「どうしたのって、ごあいさつだな。迎えに来てやったんだよ。見たいんだろ、天馬」
「そんな、いいよ――でも、なんで馬車で? 馬車なんて遅すぎるって嫌ってたくせに」
「うちのやつらにバルメルトウを見せたくなくて来ないのかと思ったんだ」
「バルムを?」
「うちも今度のフラシコの〈天馬競〉に出るって言っただろ。ここから近いし、おまえも出場を考えてんのかと思ってさ」
そもそも出られるかどうかもわからない馬を、イシャーマ牧の人間が意識するはずがない。リウ自身もまったくそんなことなど思い浮かばなかった。が、〈天馬競〉で勝つためにはまずこういう弱気がいけないのだと、勢い込んでうなずいてみせる。
「そう! 競争相手だもんね」
カズートはぶっきらぼうにうなずいた。
「じゃああいつから馬具をはずしてやれよ。帰りも送ってやるから」
「え、ちょっと待って! ありがたいけど、本当にいいってば。午後も仕事があるし」
「だったらおれからも頼んでやる」
カズートはひらりと馬車から飛び降りると、リウの家へと大股に歩き出した。
「あ、カズート!」
運悪くちょうど父が家から出てきた。カズートを見た途端、その眉が跳ね上がる。
「こ、これはこれは! 久しぶり――いや、お久しぶりですな!」
リウは思いきり顔をそむけた。けれども一瞬遅く、ねばっこいような笑顔になって両腕を広げる父の姿は見えてしまった。
「今日は馬車ですか、優雅ですな。さ、どうぞどうぞ、むさくるしい家ですが」
友好的な態度も親切な言葉も、これまでにはなかったものだ。以前の父は大牧の御曹司のカズートが小さな牧をばかにしに来ていると受け止めている節があり、彼を見かけると急いで牧の奥へと逃げて、決して顔を合わせないようにしていた。
「さあ、どうぞ。北部に戻ってきたのでしたら、また前のように遊びに来てください」
やはり父もリウと同じように、本当は廃業などしたくないのかもしれない。そのために努力するつもりもあるのかもしれない。だがそれはリウが絶対に認められない努力だった。
「父さん、やめてよ!」
真っ赤になった顔はそむけたまま、リウは叫んだ。
のぼった血が、父への怒りのためか、あるいはカズートへの恥ずかしさのためかはわからない。ともかくリウはこの場から逃げ出したい気分でいっぱいだった。カズートが振り向く気配を感じても、リウはまだ顔をそちらに向けられないでいた。
「――行こう、カズート!」
リウはバルメルトウに飛び乗ると、馬首を道へとめぐらせた。腹を軽く蹴ると、忠実なリウの馬は勢いよく走り出した。
なだらかにうねる大地を絨毯のような青草が覆い、そのところどころにこんもりと林がうずくまっている。そんな北部丘陵地帯の景色は、ランダルム牧と変わらない。
だが、
「……これが、牧なんだ……」
バルメルトウの鞍上で、リウは呆然とつぶやいた。
勢いで来てしまったイシャーマ牧は、ひたすら広かった。はるか地平の先までがその敷地だという。家や畑、柵といった人工物がなにもなく、一見したところ無人の野としか思えない。しかし牧草は青々と茂り、それでいて白土を露わにした道はきちんと整えられていて、人の手が加わっていることは間違いなかった。
「牧なのに、馬がいない……」
隣の馬車のカズートがあっさり応える。
「ここには若馬が二〇頭くらいいるだけだから、あの林の影になってるんじゃないか」