ライドガール
リウはバルメルトウの耳にささやいた。
「だけど、もう絶対におまえの邪魔にはならないから。ふたりで――ううん、みんなで勝つよ、バルム」
一瞬で背後へと過ぎ去ってゆく草原の景色のほとんどを、リウは見ていなかった。次々と迫る地表とバルメルトウと月毛の馬と。その三つのものしか見ていなかった。意識は風の中に溶けていた。
二頭の馬はどこまでも駆けていく。いつまでも、どこまでも駆け続ける。草原を吹きわたる風となり、地平のさらにその先まで。
だが、視界に飛びこんだ四つめのものが、リウの意識を引き戻した。
月毛の馬のむこう、行く手の空に、ストローンの城壁が淡い灰色の影となって見えている。ついさっき中継地を出発したと思っていたリウは驚いた。
けれども気づけば体の節々はこわばり、喉はひびわれて思えるほどに渇いている。風を受けつづけた頬はじんと冷たい。馬上に長時間を過ごした感覚が不意によみがえってくる。
リウは夢の終わり、風となっていた時間の終わりが近づいていることを悟った。
冷静な思考へと切り替える。町が近づいている。終わりは近い。ここで仕掛けるか。もう少し待つか。リウはじっと月毛の馬の様子に目をこらす。
ここまでいらだち続けながらもその脚色に鈍さがないのは、この馬の資質と乗手の技量双方の優秀さを物語っている。
だけど、とリウは瞳をいっそうきらめかせる。馬と乗手はひとつではない。馬は馬で考え、乗手は乗手で考えている。もっと早く走らせろともがく馬と、耐えて力をたくわえておけと抑える乗手と。
全力を出させないためにずらされた口の馬銜をとらえようと、月毛の馬が頭を振った。
その瞬間、リウは手綱を動かした。ぴたりと馬銜がはまった手応えが返った。
「バルム!」
声も合図も必要がなかった。馬銜をがちりと受け止めたバルメルトウは、残していたすべての力を爆発させた。
鞍下でバルメルトウの馬体が踊る。大地を蹴り、宙を駆ける。
バルメルトウの追い上げに気づいた月毛の馬の乗手も馬銜を取らせた。腹を蹴り、尻をぶち、気合いを入れた。月毛の馬の脚がぐんと伸び、蹄が跳ね上げた土くれが飛んできた。
だが、バルメルトウの脚の伸びのほうが、いまは大きい。四肢が完全に地面を離れる時間が長い。大地を蹴る合間に宙を駆けるのではなく、宙を駆ける合間に大地を蹴っているかのようだ。
一歩ごとに両馬の差は縮まり、並び、そして前へ出る。
「行くよ」
月毛の馬を一気に置き去りにして、バルメルトウはストローンの城壁の間を駆け抜けた。
優勝馬を告げる金管楽に乗せて頭上から巻かれた花吹雪が、リウの行く手を真っ白に埋め尽くした。
†
「ランダットさん!?」
広場の縁の人垣に見つけた赤毛頭に、リウの声がひっくりかえる。
優勝馬と乗手に少しでも近づこうとする観客を押さえる兵士の隣で、ランダットはのんきに手を振った。
「おー、おめでとう」
その横でローナも頬を真っ赤にして身を乗り出している。
「リウさん、リウさん!」
人混みにもまれたせいか、服がくしゃくしゃになっているが、元気そうだった。
「ローナ、来てくれてたの!」
ランダットが口をとがらせる。
「こんな遠出なんてさせたくなかったんだけどさー。おれが出ないってわかったら、すっごく怒んだもん。連れてってくれないならひとりでも行くって言い張るから」
「ローナ、ありがとう」
こくこくとローナはうなずいた。真っ赤になった顔が見る間にゆがんでいく。
「だって父ちゃんが、父ちゃんのばかが、あたしの熱なんかたいしたことないのに、ないのにこんなことして――わあああああ!! 勝ったああ!!」
「お、お? おまえ、なんで泣いてんの? だから言ったじゃん、カズートが出るんならおれなんか出なくたって大丈夫だって。あんだけ上手いやつがあんだけ本気にやってたんだから、絶対また乗れる、大丈夫だって言ったじゃん?」
「わああああああ!!」
「だからー、ちゃんとこうして勝ったじゃん。な、なんで泣くわけ?」
「わああああああああ!!」
おろおろとうろたえるランダットなど初めてだった。リウは小さく吹き出した。
親子と別れて先へと進む。歓声が、拍手が、口笛が、周囲の高い建物から降ってくる。リウは無理やり胸を張って前だけを見る。が、ふと失礼かもしれないと思って鍔広帽を取った。
こぼれ落ちたリウの髪に、広場を包む歓声がまた大きくなった。
「――リウ!」
その中に自分を呼ぶ声を聞きつけて、リウは振り向いた。
観客から守られた広場の中央に、エギルを引いたシャルスがいた。
中継地でカズートに旗棒を渡した後、すぐに戻ってきていたのだろう。鞍を下りたリウはすぐにその顔をうかがったが、彼はなにも見せるつもりはないといった笑みを浮かべた。
「おめでとう」
「わたしだけじゃない、シャルスだって」
「僕は二位だったよ。イシャーマの馬に姿も見えないほど離された、ね。とはいえ三位にも差はつけられたから、中継地で面食らっても旗棒を渡せるくらいの時間はあったよ――彼、だったんだね」
シャルスは長々と息をつくと、町の外を見やった。
「あれだけのものを捨てられるわけがないと思っていたけど、違ったんだな。彼は自分がしてやれるかたちでじゃなくて、きみが望んだそのままのかたちで助けてくれたんだ」
そうだ――リウは改めて彼のしてくれたことを噛みしめる。
カズートは自分の牧の馬と競ってくれた。勝ちたいというリウの夢を助けてくれた。
そしてリウは、シャルスの知らないことも知っている。
カズートは馬に乗れなかった。バルメルトウの鞍にまたがるのがやっとだった。再びあのように乗れるようになるまで、このひと月、カズートは毎日どれだけの恐怖と闘ってくれていたのだろう。――
いつまでたってもやってこない優勝者にしびれを切らしたのか、盛装した軍人が近づいてきた。その手には花のように豪華なリボンがあった。リボン中央の宝石のきらめきに誘われてそちらに目を向ければ、むこうに据えられた台の上には馬の青銅像が並んでいて、その首には五色の布が光っている。
「――だめ、わたし、受け取れない」
輝かしい名誉の証から、リウはとっさに顔をそむけた。シャルスに訴える。
「カズートを迎えに行ってくる! あれをもらっていいのはわたしじゃなくて、カズートだもの!」
シャルスの口が開いたが、声はなかった。一瞬の沈黙の後、彼はにこりと微笑んだ。
「わかった、彼を迎えに行ってくるといい」
「ありがとう!」
リウはバルメルトウの首をぽんと叩いた。
「ごめん、バルム。もうちょっとだけ」
バルメルトウは喜んで頭をあげた。
リウはまだつけたままの鞍に飛び乗ると、驚いた軍人の声と周囲のどよめきを後にした。
町から飛び出したリウとバルメルトウを、誰も〈大天馬競〉の優勝者とは気づかなかった。草原に三走の騎影が現われるたびに歓声はあがるが、それは町を離れていくリウたちにむけられることはなかった。
リウ自身、そうした周囲に注意はまったく払っていなかった。