ライドガール
中継地でひと息入れた二走の馬と乗手は、今度は無理をせずに三走の競路を帰ってくる。仲間の順位が気になって急ぐにしても、すでに二走の競路を走らせた馬を、また全力疾走させることなどあるわけがない。
だがリウはそんな常識すら忘れていた。駆けてくる人馬を見つけるたび、リウはそれがユーリシスとカズートではないか確かめ、またすぐに次の騎影を捜した。
舌を出して必死に走る栗毛の馬の後、ついにリウは待ち望んだ姿を見つけた。
草原をゆっくりと駆けてくる黄褐色の馬と、その背に見える黒髪の乗手。
リウはバルメルトウを止めると、鞍をすべりおり、走った。
「カズート!」
鞍を下りた世界は急に低く、走る足はもどかしいほどのろく。リウは改めて自分の無力さを思い知る。けれどもこの低さが、この遅さが、本来のリウのものだ。さっきまでのあのひらけた世界、風になったひとときは、周囲がリウを助けてそこまで押し上げてくれたからこそ、感じられたものだ。
そのことにお礼を言わなければ。
誰よりも、なによりも支えてくれたひとに。
「どうした!」
自分も鞍を下りたカズートの強ばった顔に、リウは微笑みかける。
心配しないで、優勝だよ。一番の金天馬だよ。みんなみんな、全部カズートのおかげだよ――そんなすべての言葉を言った気になって、リウはぶつかるようにカズートに抱きついた。一瞬ゆらいで、けれどもすぐにしっかと受け止めてくれた体に安堵した。
「……勝ったんだな?」
目をつぶってこくりとうなずく。
額を押しつけた彼の体から、ふっと力が抜ける。
「あせらせるなよ……なにかと思った」
だって、みんなカズートのおかげだから、少しでも早く報せたくて――会いたくて。
言葉はまったく出てくれなかった。だからリウは、力いっぱいカズートを抱きしめた。なにも言うことができなくても、想いがすべて彼に伝わってくれるよう。
そっと背中に置かれた彼の手に、リウは自分の願いが叶ったことを知った。
と同時、自分がいつのまにか泣いていたこと、彼の服を濡らしてしまっていること、そしていま自分がなにをしているかということに、やっと気づく。
「今度はなんだ?」
やけに察しのいいカズートの声に、かあっと全身の血が逆流した。
「……どうしよう」
「なにが?」
「……後のこと、なんにも考えてなかった」
「後のこと?」
「……は、恥ずかしいよ。こんなことして、顔、もう合わせられない――」
もともと合わせるつもりなんてなかったけど、このままこうしているわけにもいないし、そうなると顔を見せないわけにもいかないし――リウの頭は同じところをぐるぐる回り、そうしている分だけこの状態が長く続いてしまうことにもまた気づいて、さらに混乱する。
カズートが笑った。
「怖いからって避けてると、その後苦労するのはお互い経験済みだろ。いまのうちだ」
彼の手が肩にかかってリウを離そうとする。
「わ、やだ、だめ!」
「おまえ、本当におれのことばかり見てたんだな。バルメルトウに乗ったとき、驚いた。初めて乗った気がしなかった」
「うう……やめてよ、お願いだから……」
「安心しろ、どんな泣きべそ顔見たって冷めやしないから。――まさかまだわかってないのか? おれだっておまえだけを見てたんだぞ。金持ち嫌いのじゃじゃ馬を」
「っ――」
「おれはずっとここにいる。おまえがいる、ここに」
一瞬息が止まるほどきつく抱きしめられた直後、リウは優しく引き離された。といっても彼の手はまだ肩にある。リウは、そうすれば自分が見られることはないとでもいうかのようにぎゅっと目をつぶり、顔をそむけた。
「思いきりの悪いやつだな」
笑い声まじりの吐息。
「二度と顔を合わせてくれないってことになると、おれは路頭に迷うんだが」
「……なに、それ」
リウはごしごしと涙をぬぐい、目を開けた。
見かけの鋭さの下に隠された優しさが露わになったまなざしが、リウを見つめていた。
「いまさらイシャーマの名や金が欲しいって言っても、無理だからな。おれが持ってるのはもうおれだけだ。ただ、いまならバルムもついてくる。おまえにもらった、おれの馬だからな」
リウは呆然とまばたいた。
目を細めたカズートの顔が赤くなる。
「……あのな。うん、とか、はい、とか、どっちか言ったらどうだ?」
リウは思わず笑った。
「それ、どっちだって同じ!」
笑った途端、最後に残った涙が目尻から落ちた。
「当たり前だろ、こっちだって後がないんだ。うちの牧の馬も出てるってのに、別の馬に乗って、しかも勝ったんだぞ。おまえのところ以外、どこへ帰れっていうんだ」
まだ顔を赤くしたまま、カズートも笑った。
草原を風が吹いていく。
二度と乗れないと思っていたその風を、リウはまたつかまえた気がした。
《了》