ライドガール
丹念に梳かれた黒い毛が、薄らいでいく夜とその秘められた輝きを一身に凝らしたかのように暗く光っている。筋肉はしなやかにみなぎり、風と化すその瞬間を待っている。
行こう、とバルメルトウはぶるると鼻を鳴らし、前脚で軽く地面をかいた。
大広場を見下ろす尖塔から、高らかな金管楽が降ってくる。
それを合図に、一斉に集合旗がひるがえる。
リウははっとあたりを見わたした。
「ランダットさん!」
しかし、二走の馬と人とが旗を目指して集まってきて、混雑はいっそう激しく、リウはすぐにバルメルトウをかばうので精いっぱいになった。この中で特定のひとりを見つけることなどできはしない。
それどころか、自ら動かなければこのまま二走の人馬の中に埋もれてしまいそうだった。リウはすばやくバルメルトウの背にまたがり、甲高くなるのもかまわず声を張り上げた。
「中継地で!」
自分の声がランダットの耳に届いたことを祈りながら、リウは彼方の三走の旗のもとへとむかった。
ランダットに聞こえただろうか。シャルスはちゃんと一走として準備できているだろうか。心配はあとからあとから浮かんでくる。
中継地までの道行きを思いに沈んで過ごしたリウは、ふと別のことに気づかされた。
鞍下に感じるバルメルトウの馬体――問題はなにもない。闘争心の強いバルメルトウだが、まだ走るべきときではないと知っている。だから馬群の中の一頭としておとなしく歩いている。その歩調にはまったく違和感はない。バルメルトウはいつもどおり歩いている。
むしろ、いつもどおりすぎるほどだった。
バルメルトウにはひと月近くも乗っていない。これだけ長く離れていたのは初めてのことだ。当然のことながら、その間バルメルトウに調教をつけてここまで仕上げてくれていたのは、リウではない。
馬にもそれぞれ癖があるように、乗手にもそれぞれ癖がある。いい乗手は馬の癖を知って対応するが、いい馬もまた乗手の癖を覚えて、それに対応してくれる。
ただ乗るだけならどんな馬でも問題はない。しかし、自分自身の体の延長であるかのようにぴたりと息の合う馬はなかなかいない。それは相性だけでなく、毎日乗った末にやっと獲得できる繊細な感覚で、つきあいが途絶えれば容易に薄らいでしまう。
バルメルトウに微妙なぎこちなさを感じてもおかしくはなかった。むしろ、感じないことのほうがおかしかった。
リウはほとんど笑うような小さな息をつく。
「おまえ、ランダットさんにどんな調教をつけてもらってたの?」
バルメルトウは耳をぴくりと動かしただけで、もちろんなにも応えない。
リウは今度こそくすりと笑うと、大きく息を入れて顔をあげた。
改めて、自分の戦いに意識をむける。
途端、目に飛びこんでくるのは、周囲の駿馬たちだ。質だけではなく数もまたリウを圧倒する。この三走を走る馬だけでも、各〈天馬競〉の全出走馬くらいはいそうだった。
当然だった。本来〈天馬競〉といえばこの〈大天馬競〉のことで、かつては騎士の名誉を獲ようと国中の人と馬とが集まったものだからだ。
あまりに出走馬が増えすぎ、また〈天馬競〉を主催したいという町が出てきたために、いまのような〈天馬競〉での二勝という出走条件が設けられるようになった。しかし、すべての馬と人との挑戦というそもそもの意識は変わっていない。逆に言えば、どんな馬だろうとどんな牧だろうと、二勝さえすれば〈大天馬競〉の出走を拒まれることはない。
「それが、こんなにいるんだよね……」
〈天馬競〉の一勝で十分だと考えていた以前の自分を、リウはひどくちっぽけに感じた。と同時に、それをちっぽけと感じるいまの自分に驚きもした。
当時はその一勝すら遠かった。だが、いまは二勝し、最初は考えてもいなかった〈大天馬競〉にこうして出ている。あたりの馬はすべて駿馬に見えるが、バルメルトウもまたそうした駿馬の一頭なのだ。
リウは目を閉じる。
バルメルトウがランダルム牧に生まれてくれたこと。シャルスが協力してくれたこと。そしてランダットという希有な助っ人を見つけられたこと――どれもがリウにとっては奇跡だった。そんな奇跡がいくつも起きてくれたからこそ、リウはここにこうしていられる。
「――勝たなきゃ」
自分自身のためではない。
最初は自分自身のためだった。少しでもカズートとつながっていたいと願ったからだった。その願いはもはや永遠に失われて、たとえ〈大天馬競〉に勝ったところで叶うことはない。けれども、勝つ理由は他にもある。勝ちたいと願った自分を助けてくれた人たちのために、リウは応えてみせなければならない。
リウはバルメルトウのたてがみに指をからませた。幸運を求めてのことではなく、くしけずられたたてがみを確かめるためだった。
「こんなにきれいにしてもらって」
リウはにこりとする。
バルメルトウは勝つだけの準備をすっかり整えてもらっている。ランダットのことだ、ユーリシスも同じように仕上げているだろう。そしてエギルの仕上がり具合はリウ自身の目で見ている。
「絶対に勝つよ、バルム」
最初で最後の〈大天馬競〉。
それ以外の結末などありえない――リウは自分に誓った。
緑の草の海が風に揺れている。透きとおった秋の陽に葉の裏がきらめいて、さらさらと涼やかな音を立てる銀の波が広がっていく。
どこまでも、どこまでも。
緑の地平線の、さらにその先へ。
リウは北部の象徴のような景色を飽きもせず見つめていた。不思議なほど心は落ち着いていた。他の人馬はまったく気にならない。生まれ育ったこの地の風になる一瞬を、リウはバルメルトウとともにただ待っていた。
西の丘の上に煙が立った。合図の狼煙だった。ざわめく参加者たちの前に、軍人が姿を見せた。
「まもなく最初の二走騎がこの中継地へ入ってくる。それが自分の組の者でない場合は適宜移動し、他の出走を妨げないよう。また万が一、他者への妨害、乱闘などがあった場合は、状況により失格者を判断し……」
軍人の説明は続いているが、まもなくの出走と聞いた出走者たちはうわついて、それどころではないようだった。鞍帯どころか手綱まで確認しているのはまだ落ち着いているほうで、中にはむやみに鞍に飛び乗っては飛び降りることをくりかえす者までいた。
そんな姿に苦笑し、自分にこうも余裕があることに驚きながら、リウもバルメルトウの鞍帯を確認した。
「ユーリシスも、きっとすぐに来るよ」
思わず「ユーリシスも」と言ってしまったのは、当然のように馬群から進み出てきた月毛の馬を視界の隅に見てしまったからだった。
リウはちらりとそちらを向いた。
軽く曲げた首の長いたてがみが、かすかな風にそよいでいる。月毛の馬は相変わらず神々しさすら感じさせるほど美しく、その足取りも踊るようだった。
あの馬を連れて、カズートはこのあと南部へ行くのだろう。同じく月色に輝く金髪の貴族の姫君に会いに行くのだろう――そんな考えがまたよぎり、リウは顔をそむけた。体を倒して、バルメルトウの首をぽんと叩く。
「大丈夫」