ライドガール
そんな彼に感謝するどころか、負担としか思えない自分がまた申し訳なくて、リウは泣きそうになった。
「……どうしてそんな……」
「きみが幸せになるところを見たいからさ。彼はいいやつだ。だけど、彼はきみを幸せにしてやれない。きみは彼の世界で暮らすことはできないし、彼はきみの世界で暮らすことはできないんだ。彼はあくまでもイシャーマの人間だ。きみに恵みを施すことはできても、きみの手を取って隣に立つことはできないんだよ。彼にもそれはわかっているはずだ。だからずっと、きみにもなにも言わずに来ただろう?」
それが彼なりの誠実さなんだろうけれどね、とシャルスは言い添えた。
「この〈大天馬競〉で、彼の馬はまたいずれかの天馬の称号を獲るだろう。それを手土産にして、彼は今年の冬もまた南部へ行く。去年の冬は、兄のつきそいとしてだったけれど、今年はきっと彼自身の婚約のためにね」
シャルスの口調は淡々として、すでに起きた過去の事実を語っているかのようだった。
だからかもしれない。不思議とリウに悲しみはなかった。そうだろう、といういくらかの寂しさがあっただけだった。最初から結末はわかっていたからこそ、リウはずっとなにもかも気づかないようにしてきた。いまその結末がやってきた。それだけのことだった。
けれども、だからといってシャルスに甘える理由にはならない。
「……シャルス、わたし」
「返事は片付けをすませてからだよ、リウ」
「え……?」
「ランダットが出ると行っているんだ。ここまで来たら、天馬を獲ろう。バルメルトウにはしばらく乗ってないみたいだけれど、きみたちならすぐに息を合わせられるだろう? きっとランダットがバルメルトウも連れてくる。彼らは僕が待つから、きみは部屋でゆっくり休むんだ。明日のために」
明日のため。
シャルスの言葉はひどくうつろに響いた。明日走って、仮に勝ったとして、それで自分はなにを得るのだろう。
リウは自分の想いをカズートに伝えてしまった。せめて彼に伝えていなければ、牧を続けているかぎり彼とほんの少しでもつながっていられるという夢を見つづけられたかもしれない。けれども一度伝えてしまって存在を知られてしまった想いは、夢を夢のままにしておくことを許してはくれない。
リウがイシャーマ牧と同じタールーズ地方にいるかぎり、カズートはリウのことを、リウの想いを、ずっと意識させられることになる。
――わたしがいたら、迷惑になる。
宿の階段をのろのろとあがりながら、リウはランダットの気まぐれを初めて恨んだ。翻心に感謝こそすれ、恨む筋合いなどないとよくわかりつつも、それでもランダットを恨まずにはいられなかった。
そんな醜い、弱い自分を呪いながら、リウはベッドに体を投げ出した。
†
もやもやとした夢はノックの音で破られた。リウは目を覚ました。
窓の外はまだ暗いが、秋の気配が濃い冷えた空気が夜明けが近いことを教えてくれている。リウは上着をひっかけ、扉に近づいた。
「起きているかい、リウ」
リウは扉をあけた。シャルスだった。ランタンを持ち、その顔は強ばっている。
「ランダットがまだ来ないんだ」
「えっ?」
「ひとまず大広場まで行こう」
「そこでも会えなかったら?」
「残念だけれど、辞退になる。ランダットはもちろん、ユーリシスもバルメルトウもいないんじゃ、それしかない」
むしろそうなってくれればいい、とリウは密かに願った。
あわただしい朝食後にむかった集合場所の大広場は、集まった馬と人とでそこだけ気温が高くなっていた。
年に一度の〈大天馬競〉は、馬に関わるすべての者が出走を、そして勝利を願う場だ。自分や馬の世話係を数名ずつ連れてきている乗手も少なくなく、さらに自分では乗らない馬主も激励に来ていて、混雑ぶりはこれまでリウが見たどの町の〈天馬競〉よりも激しい。
薄闇のむこうの人混みに、ほんのり輝くような黄褐色の馬の頭が見えた。のんきそうに鼻先を伸ばしてあたりを見ながら遠ざかるその馬は――
「ユーリシス!」
リウは叫んだ。
しかしランダットの赤毛頭は見つからないまま、ユーリシスの姿も人混みに消えた。
リウはシャルスに声をかけた。
「エギルを連れてたら遅くなっちゃう。シャルスはもう一走騎の集合旗へ行ってて。わたし、二走騎の集合旗を見てくる」
「待った、リウ。この人混みで別れたら、もう僕たちも落ち合うことなんて無理だ」
「シャルスは出走準備していて。もし出走前にランダットさんにもバルムにも会えなかったら、そっちに行くから」
馬連れでは早歩きも難しいが、人ひとりなら走る余地はまだある。リウはシャルスの返事を待たずに彼から離れた。
集合旗はまだ立っていない。だが、大体の場所はすでに決められている。リウは二走の集合旗が立つ予定の広場の一角を目指した。
馬のいななき、蹄で石畳をかく音。興奮した人の声の中、ときどき聞こえる落ち着いた話し声は〈大天馬競〉の常連だろうか。
きっとカズートも来ているだろう。そしてイシャーマ牧のあの見事な月毛の馬は、天馬の称号を得るに違いない。
月毛の色から連想は勝手に働き、リウはダールグに見せられた金髪の貴族の姫君を思い出す。夢見るような瞳に、ふっくらとした唇。同性のリウですら見惚れてしまうような美しい姫君はきっと他にもいて、リウには一生縁のない華やかな南の地で、もしかしたらいまこの瞬間もカズートを待っているのかもしれない。
「――ばか」
リウは小さく自分を叱りつけて、とりとめもない夢想を追いやった。
ランダットがバルメルトウを連れているなら、カズートも彼からなんらかの話は聞いているはずだった。そして、ひとりでいるランダットより、連れてきた牧童やなんやらで大人数のイシャーマ牧の一行を探すほうが楽なのは間違いなかった――そうは思ったが、リウの目は自然に人の集まりを避けてしまう。
カズートの姿を見たくもなければ、彼に見られたくもなかった。どの称号を得るかだけを問題にしているはずの彼に、いまになっても自分の馬も連れずに、こそこそとほっつき歩いているみじめな姿を見せたくはなかった。
あたりはますます混んできた。小走りしていたリウも、ついに歩くしかなくなった。
集まっている男たちは、当たり前だが皆リウよりも大きい。そんな中を歩いていると、小さい自分がさらに小さくなっていくように感じられる。リウはきっと唇を引き結び、すばやく頭をめぐらせながら先を急いだ。
後ろに残った手が戻る前に、雑踏のなにかが触れた。と、手の中に細長い物が落ちてきたかと思うと、大きな手に包まれてぎゅっとそれを握らされた。
使い込まれてくたくたになった革――手の中にあるのは、これまで何百回何千回と握ってきた、手綱の感触だった。リウはあわてて振り向いた。
「バルム――」
漆黒の馬が突如としてそこにいた。自分の魔法はどうだと言うかのように、深い色の目がいたずらっぽくリウを見つめていた。
リウはおずおずと自分の馬に手を触れた。