ライドガール
七 草原の風
「じゃあ、行ってくる」
またがる馬はバルメルトウではなく、シャルスやランダットといった仲間もいない。
〈大天馬競〉の舞台となるストローンへの旅が、こんなにも寂しい単騎の旅になるとは、リウはまったく思っていなかった。
行けないかもしれないという覚悟はしていた。だが、もし行けるとしたら――ストローンへの旅は、もっと晴れがましく、もっと喜ばしいものになるはずだった。
「……気をつけてな」
目を赤くして声もない母に代わり、父はそう言ってくれた。
リウはにこりとした。
――〈大天馬競〉には出られない。
昨夜、両親にはそう話した。
――さんざんわがままをして、期待を持たせて、それなのにこんなことになってごめんなさい。やっぱりわたしには無理だった。
そう詫びた。
母は泣きながらリウを抱きしめ、父は無言でリウの頭に手を置いた。リウのしたことを認めるとまではいかないにしても、ふたりはリウを許してくれた。
だから――リウは馬に合図を送って走らせた。頬に風を受け、行く手の緑の地平線を見つめながら、自分自身に言い聞かせる。
「夢を見る時間は、これでおしまい」
リウはずっと子供だった。ベッドの中でぬくぬくと楽しい夢を見ているだけの子供だった。いいかげんに起き出さなければならない。
ストローンで見るものは最後の夢、現実の始まりとなるはずだった。
王家の祖先がいた古城が残るストローンは、町のあちこちに当時の防壁がそびえている。かつて兵が行き来していた白岩の壁の上には、いまは大きな日傘がぎっしりと並んでいる。明日の〈大天馬競〉に備えて特等席を取った熱心な観客のものらしい。通りも色とりどりの花や布で飾られ、行き交う人びとの顔も明るい。
そんな祭の雰囲気から、自分ひとりだけがはじかれた気がした。リウは気後れを感じつつ、通りを進んだ。
行き着いた大広場では、王家の祖先とその愛馬が等身大の大理石の像となって、人でごった返す足もとを見下ろしている。広い肩には豊かな色合いのマントがかけられ、いにしえの栄光をいまによみがえらせていた。
混雑の中に、リウは軍服を探した。
馬上でなければ無理だったかもしれない。広場に規則正しく並ぶ黄金旗の、ひときわ大きな旗の下に、リウの目は黒い固まりをとらえた。リウは行く手の人びとに声をかけながら、人形のように動かず座っている軍人の前になんとかたどり着き、馬を下りた。
「あの――」
乾いた唇をこじあける。〈大天馬競〉への参加ともなれば、こうして競技直前の前日に受付をしようとする組など他にはいないだろう。まして、辞退しなければならない組など。恥ずかしさとも口惜しさともつかない感情がリウの身をすくませる。
「あの、ランダルム組です。今回――」
軍人は机に乗った名簿に視線を落とし、それからもう一度顔をあげた。
「ランダルム組なら、すでに出走受付はすんでいるが」
「えっ!? で、ですが許可証はここに」
リウはあわてて筒を出した。
軍人は無造作に筒を受け取り、中の出走許可証を一瞥すると、リウに返した。
「よし、確認した」
ペンを持つ手が動き、名簿に書かれていた細かい字に線を引いて消した。
「待ってください! 出走するだなんて、そんな話は聞いていません!」
「手違いか? 昨日手続きは終えている。ただ出走許可証が遅れているという話だった」
「でもわたしたち、もう出られなくて――」
「だからなにかの手違いだろう。現にこうして受付はすんでいる。ああ、だが、来年も出るのならば、今度は受付時に出走許可証を忘れないように」
「あの……」
頭がくらくらする。リウはまだ自分が夢を見ている気がした。
「一体誰が、手続きを……?」
「シャルス・ノアとなっている。届け出られた宿泊先は銀雲亭だ」
「……ありがとうございます……」
リウはふらりと机の前を離れた。
道行く人に尋ね、銀雲亭にたどり着く。
中心地からは少しはずれた、大きくはないが居心地のよさそうな宿で、門をくぐった中庭には他の出場者の馬がつながれて、手入れをされていた。
その中に、エギルの高々とした頭があった。
「シャルス!」
リウは鞍から飛び降りると、そのむこうにいたシャルスに駆け寄った。
「どういうこと!? どうして手続きを!?」
振り返ったシャルスは驚いた顔をした。
「それは僕が聞きたいよ。やめるって決めたはずなのに、一体どういうことなんだい?」
「えっ?」
「それぞれ自分の馬ととことん息を合わせよう、だから僕もエギルだけに集中してほしいって、ユーリシスを連れていったよ」
「誰が?」
「だからランダットだよ。きみに説得されたって、うちに来たんだ」
リウは忙しくかぶりを振る。
「ランダットさんにはもうずっと会ってない。ローナが治ったかどうかも聞いてない」
「なんだって? ……じゃあ、僕は騙されたってことかい?」
シャルスは苦笑した。
「本当にしょうがないな、あの人は。一体なにを考えているんだろう」
「ランダットさんは? 部屋?」
「いや。この銀雲亭に部屋をとっておくよう、あとから来た彼の手紙に書いてあったんだ。だからおとといからエギルといるんだが、彼はまだだ」
リウはエギルに改めて目をやった。
体の茶と脚の黒、二色の毛はつやつやと輝き、贅肉をそげ落として張り詰めた馬体には筋肉と血管が浮き上がっている。他の馬と比べても遜色のない、〈大天馬競〉にふさわしい馬だった。シャルスはエギルを完璧に仕上げていた。
「……バルムは……?」
シャルスは少しだけ表情を硬くした。
「僕が聞きたいね。どうしてバルメルトウに乗ってこなかったんだい?」
「……あげたから」
「え?」
「わたしはあの子を天馬にしてあげられないから。だからカズートにあげた」
「リウ――」
シャルスは傷つけられた顔をした。
「今年は出走できなくても、来年、もう一度挑戦するんじゃなかったのかい?」
リウは、今度はゆっくりかぶりを振る。
「来年なんて、うちにはないもの。ランダルム牧は今年の冬は越せない。だからわたしも、働きに出るつもり。どこか、ずっと遠くへ」
「だったらうちの牧でいいじゃないか」
「ありがとう、シャルス。本当にありがとう。だけどだめだよ、そこまで甘えられない」
「甘えてほしい、頼ってもらいたいと、僕自身が望んでいるのに?」
「わたしにはそんな資格なんてない。だってわたしは――」
シャルスはにこりとした。
「ああ、やっときみは自分の気持ちを口にできるようになったんだね。彼に恋しているって」
「シャルス――」
「いいんだよ、それで。ようやくありのままを認められるようになったということなんだから。わかっただろう、きみは彼に恋している。だけど、それがわかったのなら、もうひとつのこともわかったはずだ。彼は、結局は違う世界の人間なんだって」
言葉を返せないリウの表情から、シャルスは答を読み取ったらしかった。あのふわりとリウを包みこむような優しい顔になった。
「僕は気が長いんだよ。きみを待てるよ、いつまでも」
シャルスはどこまでも優しくしてくれる。リウの気持ちが自分にないことを知りながら、それでも待つとまで言ってくれている。