ライドガール
がらがらと馬車の車輪が勢いよく、ほとんどはずれそうに回る音がやってきたかと思うと、突然止まった。
「兄貴!」
その声にリウが凍りついているあいだに、足もとに新たに別の影が差し、傍らに立っていたダールグがいきなりよろけていなくなる。
「なにしてた、なにを言った!」
「なんだ、ごあいさつだな。僕はおまえの客の相手をしてやっていただけじゃないか」
「うそつけ! 一体こいつになにを言ったんだ! どうせよけいなことなんだろ!」
「よけいなことじゃなくて、大切なことだよ。大体、そもそもおまえがきちんと話しておかなければいけなかったことじゃないか」
「なんだ、言え!」
「おいおい、それが兄さんに対する言葉なのか? 僕はおまえの友達にありのままを教えてやっただけだよ」
「言えって言ってんだろ!」
「まったくしょうのないやつだな。だから、ばかな夢はさっさと捨てて、いくらならいいんだって聞いたんだよ」
「いくらってなんだよ!?」
「白状しろよ、結婚するとかなんとか甘いことをささやいて、この子のお腹を大きくしちゃったんだろ? 軽はずみなことはするなって、あれほど――っ!」
言葉にならない叫びとともに、どさりと重い物が倒れこむ音がした。
リウはのろのろと振り向いた。
地面に尻餅をついて、ダールグが頬を押さえた顔に怒りの表情を露わにしている。だがそれ以上の怒りが、兄を見下ろすカズートの顔を強ばらせ、その肩を震わせている。
「ふざけんな!!」
かえってそれ以上の言葉は口から出てこないらしかった。
ダールグが頬をぬぐって立ち上がった。怒ったままのその顔に不気味な笑みが浮かぶ。
「ふん、乱暴なごまかし方だな。違うとは言わせないぞ。この前の留守のあいだ、この子はおまえが馬に乗っていたなんて言ったんだ。これがうそじゃなくてなんなんだ?」
「うそじゃない! おれはずっとうちの牧にいた。ただ家に帰らなかっただけだ!」
「へえ、うそじゃないっていうなら、兄さんに見せてくれよ。昔から僕の乗り方にはさんざん駄目を出してくれたじゃないか。あのころみたいにお手本をさ、ほら!」
ダールグは家の前の横木につないだ馬を指さした。
カズートはダールグをにらむと、すたすたと馬の横に行った。手綱をつかむ。
「――!」
リウは目をみはった。
鞍に置いた手がぎこちなく固まっている。両足はいつまでも地面に張りつき、表情の消えた横顔はここからでもわかるほど青ざめている。
こんなカズートをリウは見たことがない。けれども、いまの彼と同じものは知っている。馬に乗れなくなったときの自分を。
カズートが馬に乗れない――信じられない光景に呆然としたリウの手の中から、そのときするりと手綱が抜けた。
「……バルム」
リウは勝手に歩き出した愛馬をぼんやり眺めた。
バルメルトウはカズートの肩に鼻面をすりつけた。
カズートは肩越しに振り返り、バルメルトウに無言で微笑んだ。それから体ごと向き直る。バルメルトウの影に隠れる寸前、彼はリウをちらりと見た。
「カズート、無理は――」
しないで、とリウが声をかけるより早く、バルメルトウの背にカズートの姿が現われる。顔はまだ青ざめている。体には不自然な力が入り、手綱をつかむ手もぎこちない。まるで特別怖がりな初心者だ。リウの心に焼きついているあざやかな騎乗姿は見る影もない。
だが、それでも彼はたしかにバルメルトウに乗っていた。
「っ!」
ダールグが息を呑んだ。それからひどく怖い顔になって家へと帰っていった。少年がおろおろと、そんな彼についていった。
カズートは兄に一瞥もくれず、ゆっくり歩き出したバルメルトウにまたがっていた。あたりをぐるりと一周してバルメルトウが止まると、彼は鞍を下りた。そして手綱を引いてリウのところへ戻ってきた。
「……悪かった」
リウは彼を見つめた。
絹のスカーフがなくなった首もとには、大きな傷痕が見えている。馬の蹄にえぐられたという、リウの知らない彼の傷。目はその傷痕に吸い寄せられて、自分こそ謝らなければならないと思っているのに、他の言葉がこぼれてしまう。
「……馬、乗れなくなったって……」
カズートは小さく舌打ちをすると、ダールグが消えた家をにらみ、傷痕に手を置いた。
「よけいなことばっかり言いやがって」
「でも、いま、バルムには……」
カズートは視線をリウからそらせたまま笑った。
「人を乗せるのが怖くなった馬と、馬に乗るのが怖くなったやつとで、気が合ったんだよ。だからなんとか乗せてもらった」
彼の傍らのバルメルトウが、そのとおりと賛同するかのようにリウを見つめた。
「あーあ、それにしてもみっともないとこ見られたな。おまえがおれを褒めるのなんて、馬乗りだけだったのにな」
以前そのままに作った口ぶりが、かえって彼の心の傷の深さを感じさせて痛々しい。
たいしたけがもなかったリウでさえ、再び馬にまたがるまでには自分の中に巣くった恐怖を克服しなければならなかった。落馬がそんなに怖いならこのまま食べず眠らず死んでしまえばいい、そんなところまで自分自身を追い詰めて、やっと再び乗れるようになった。
まして落馬事故で死の寸前まで行ったというカズートの恐怖は、どれだけのものだったのだろう。このようにまた馬の背にまたがることができるようになるまで、どれだけの勇気を奮い起こさなければならなかったのだろう。
傷痕に置いた彼の手が離れた。
「ま、今回にかぎってはそれでよかったってことにしとけよ。おかげでこいつと気が合ったんだから」
視線が戻ってくる。
「リウ、絶対にバルメルトウを天馬にしてやれよ。こいつは一〇〇年に一頭の馬だ」
切れ長のその目が笑った。
「――」
彼が残していったスカーフは持ってきている。イスラの店でさりげなく絹の手入れの仕方を聞き込んで、さらさらとすぐにくずれてしまう生地に苦労しながらきれいにたたみもした。だが、いまそれを差し出すことはリウにはできなかった。傷痕を隠すことをやめ、勇気を奮ってもう一度馬に乗ってくれた彼にこれを返すなど、この上ない侮辱だと思った。
彼に伝えなければならないことは、そうでなくても他にもたくさんある。
いくら言っても足りない謝罪とお礼。〈大天馬競〉をあきらめることになったこと。できればバルメルトウを引き取ってもらえないか、来年の〈天馬競〉にカズートの馬として出してはもらえないか、そのことも頼まなければ。――
「あのね」
だが次の瞬間、リウの唇は勝手に動いた。
「わたし、ずっとカズートが好きだった」
ひとつだけ伝えたのは、それらすべてをひっくるめたよりなお大きな想いだった。
「だけどわかってたから。お兄さんの言うとおりだって、ずっとずっとわかってたから。わたしたちは住む世界が違ってて、一緒にいられるはずがないって、わかってたから」
友達としてか、もしかしたらそれ以上なのか。彼が自分をどう思っているのか、だからリウは気にしたことがない。最初から友達以上の関係などありえないと知っていた。だから彼が友達として扱ってくれれば、それで十分だった。