ライドガール
「……こんにちは、突然押しかけて申し訳ありません。カズートを待たせてほしいんです」
リウは目を伏せさせ、頼んだ。
「ここでかまいませんから」
「とんでもない! 馬になにかされたら大変だからね。それに馬って神経が繊細なんだよ」
さすがにリウは顔をあげる。
「なにもしません! これでも牧の娘です、馬の扱い方くらいわかってます!」
ダールグはやけに思わせぶりに息をついた。
「やれやれ、カズートのやつめ。あれだろ、あいつが留守にしていたときだろ?」
「え?」
「だから、二か月くらい前だっけ。カズートが留守にして、何日か帰ってこなかったとき。あれ、きみの家に行ってたんだろ?」
「なんの話ですか?」
ダールグは、無邪気すぎる目をさらにわざとらしく見開いた。
「おや、僕はてっきり、きみが大変なことになったと気づいて押しかけてきたのかと思ったよ。きっちりと話をつけにね」
「話ってなんのことですか? わたしはただ、お礼をしようと思って来たんです。カズートはわたしの馬を助けてくれましたから」
「馬を、ねえ」
「そうです、この馬です。わたしが下手な落馬をしたから、バルムも人を乗せられなくなって。だけどカズートが、もう一度人を乗せて走ることを教えてくれたんです」
「あはは!」
いきなり大声で笑い出したダールグに、さすがにリウは表情を硬くした。
「そんなにおかしいですか」
だが、ダールグはリウの言葉など耳にも入ってないようだった。
「うそうそ、そんなうそなんてつかなくていいよ! 僕は話のわかる兄貴だからね。お医者さんにはもう行ったの? それともカズートのやつをつかまえてから?」
「お医者さんって、一体なんの話ですか」
「だからさ。もう少ししたらきみのお腹が大きくなっちゃって、周りにも知られちゃうってことだろ」
「なっ――」
恥じらいどころか怒りすら忘れて絶句するリウを、ダールグはにやにや笑いながら上から下まで眺める。
「それにしても下手なうそだね。カズートが馬に乗った、だなんて。あいつが馬に乗れるわけがないんだよ。なまじずっと友達だったから、そんなこと、想像もつかなかったんだろ? あーあ、ばれちゃったねえ」
「えっ!?」
ダールグにリウは詰め寄った。
「どういうことですか! カズートが馬に乗れないって!」
ダールグは半歩後ずさり、リウの息が乱したとでもいうように胸もとを直した。
「どうもなにも、そのまんまの意味だよ。あいつは馬には乗れない」
リウの脳裏を、これまで見てきたカズートの騎乗姿が通り過ぎていく。自分よりはるかに大きな馬をやすやすと御していた子供のころ。大胆に体を委ね、鞍下で疾走する馬とひとつの生き物のようだった少年のころ。リウは彼をこの世で一番の乗手と信じてきた。
だが、一年の不在の後、考えてみれば馬に乗ったカズートをリウは一度も見たことがない。彼はいつも馬車に乗っていた。いつも馬に乗っていた以前とはまるで違っていた。
「……カズートが馬に乗れない……?」
「そう。去年、南部で落馬したんだよ。それで、馬の蹄がなんだかやけにうまくぶつかっちゃって、首がざっくり切れちゃってね。あたり一面、真っ赤っかだったってさ」
ダールグが無神経にやってみせた首をかき切る仕草に、リウはぞっと身を震わせる。
「運ばれてきたときの顔といったら、掛け値なしに真っ白だったよ。僕もこれはだめだと思ったね。まああいつは丈夫なたちで、一年かけて天国寸前で引返してきたけど、それきり馬には乗れなくなったんだ。一度あいつが馬に乗ろうとしてたところを見ちゃったけど、いやあ、さすがにかわいそうになったね。顔がまた真っ白になっちゃっててさ」
でも、とリウは弱々しく抗う。
「……カズートは、本当にバルムを……」
ダールグの笑い声がリウのつぶやきをかき消した。
「ねえ、だからいいんだよ、そんなうそつかなくて。あいつにできるわけないんだからさ」
頭がひどく混乱する。バルメルトウを元のバルメルトウに戻してくれたのは誰だったのだろう。本当にカズートだったのだろうか。リウがやはり変わってないと感じた彼は、知らずに夢見てしまった都合のいい幻だったのだろうか。
「正直に言っちゃいなよ。カズートに責任取って結婚してもらうか、それが無理なら手術代も含めたまとまった金が欲しいんだろう?」
ダールグは相変わらず、一見無邪気ににこにことしている。だが、その目の奥には冷ややかな光がある。持てる自分とは違う、持てざる者を蔑む光。
「ずばり、いくら? きみの場合こうなるまでも長いから、相当ふっかけてくるよね」
混乱の中、相手への怒りよりも、悲しみばかりがこみあげる。そんな自分にいらだつどころか、ますます悲しくなっていく。この人にはなにを言ってもわからない、わかってもらえない、そんな絶望が胸を押しつぶしていく。なにもかもを持つ彼は、この牧の人間は、持たない者であるリウの心を決してわかってはくれない。
「……わたしは、ただ……」
「ああ、だからだめだめ! あいつがどんな調子のいいことを言ったか知らないけど、そんなことはありえないから」
「ただ……カズートに……」
ありがとう――そう伝えたかった。ごめんなさい――そう謝りたかった。
そのふたつの気持ちだけを伝えて、三つ目の気持ちは口にするつもりもなかった。誰かにわかってもらうどころか、そんな想いがある気配すら絶対に感じ取られたくないと思っていた――はずだった。
それなのに、しかも相手は望みどおりリウの感情を無視してくれているというのに、どうしてこんなにも心が傷つけられるのだろう。
ダールグはかまわず、やれやれといったふうに両手を広げる。
「こんなことになるんじゃないかと、昔から思ってたんだ。あいつにも何度も忠告してやったんだよ。イシャーマの人間が軽々しくふるまうな、ってね。きみもさ、つい期待しちゃったんだろ? イシャーマの一族に加われるんじゃないかって。地元の、それも無名の家の娘がそうなるなんて、絶対にありえないんだけどねえ。――ほら、見てごらん」
ダールグはリウの横に来ると、首からさげた細長いペンダントを開いて見せた。
リウは逆らう気力もなく、視界に入ってきた親指ほどの細密画をぼんやり見つめた。
きっとこれひとつでランダルム牧が買えるほどの値段だろう。永遠に色あせないエナメルに美しい姿を残しているのは、白い首に真珠のネックレスをつけた金髪の姫君だった。
「僕の婚約者だよ。南部の伯爵姫。冬にまたむこうに出かけて、春になったら式をあげるんだ。立派な式になるよ。北部南部の高名な家の者が全部集まって、陛下のご臨席も仰いで。なにしろ足かけ二年がかりで準備したからね」
くすくす笑うダールグは、ぱちんとペンダントを閉めた。
「わかるだろう、これがイシャーマの結婚なんだ。あいつも、あれでも僕と同じイシャーマの人間だからね。きみとは住んでいる世界が違うんだよ」
草原を吹き抜ける風が遠い。夢を見ているときよりも夢のようだ。
もしかしたら、むしろこれまではっきりしていると思えたものこそが、夢だったのかもしれない。牧の馬たち、駆けてくる騎影、たわいないやりとり――彼の隣にいた時間。
「わたしは……」