ライドガール
「ユーリシスの調教さえしておけば、ランダットさんなら特別な練習なんてしなくたって」
今度見えたものは、ゆっくり振られた赤毛の頭だった。
「人ってさ、一度傷んだら、そう簡単に元に戻るようなもんじゃないからさ。あんだけ熱が出た後は、ひと月くらいはゆっくりさせてやんなきゃ。だからごめん」
「そんな――」
そこまでしなくたって、という勝手が思わず口からこぼれかけて、リウはとっさに唇を噛んだ。そうやってどうにか声に出すことはこらえても、自分さえよければ、という心に差し込んだ暗い影はぬぐいきれない。そんな自分に嫌気がさす。といって、このままでは牧やバルメルトウは失われてしまう。自分がどうしたいのか、どうすればいいのか、リウはまったくわからなくなる。
「……これ、ローナには内緒な」
立ち尽くしたリウに、ランダットが再び声をかけてきた。彼は声をひそめた。
「あいつ、おれとは血がつながってないの。この辺を行商してた男でさ。逃げられちゃってキミイが困ってたから、じゃおれと結婚してもらって、おれの子にしようかなって」
「っ!?」
「おれ、昔のこと覚えてないって言ったじゃん? それって、じいちゃんやキミイや、それからローナがいてくれて、とにかく毎日楽しくってさ。昔の自分なんて思い出す必要がなかったからだと思うんだよね」
重い告白を彼らしくさらりとしてのけたランダットは、ちらりと家の中を振り返った。
「だからローナのいい父ちゃんでいてやりたいんだけどさ。おれ、こんなだから、なかなかなってやれなくて。せめて病気のときくらい、思いっきり大事にしてやりたいんだ」
ランダットは振り向いた。いつも飄々としていた顔に、いまは強い決意の色がある。
彼は何にもこだわらないのではない。世の中でただひとつのものだけにこだわり、なによりも大事にするという覚悟を持っていた人間なのだと、リウは初めて悟った。
「本当にごめんな。なに言ってもいいし、いくらでもぶっ飛ばしてくれていいよ。でも、たとえ殺されたって出ることだけはできない。――おれ、ローナの父ちゃんだから」
それはまさに父親の顔だと、リウは思った。
大切なものを守るために他のなにもかもを捨て、結果もすべて引き受けると宣言している相手を、いまさら動かせるわけがない。
プルノズ農場から帰るや否やベッドにもぐりこんだリウは、明け方、やっとそんな気持ちになれた。のろのろと起き出して父と厩舎で一仕事片付けた。父はなにも言わなかった。
「父さん母さん、ノア牧まで出かけさせて」
リウが頼んだのは、卵とベーコンの朝食を食べ終えた席だった。
父がちらりと目線をあげる。
「〈大天馬競〉のことか」
「そう」
「行ってこい。――気をつけてな」
付け足されたひと言に、リウはこれまでの父がこれまでの態度を詫びる気持ちを感じ取った。すまん、とは素直に言えない父の、おそらくは精いっぱいの謝罪を。
「ん」
リウは微笑んだ。父はすぐに目を伏せてしまったが、十分だった。外へ出てバルメルトウに鞍をつけ、リウはノア牧へと駆けた。
「なんだって?」
見る間に血の気がひいていくシャルスの顔を、リウはじっと見守った。
彼を〈天馬競〉に挑ませたきっかけはリウだったかもしれない。だが彼自身が言ったとおり、すでにこの挑戦の結果には彼の未来もかかっている。
「ここへ来てランダットが出ないだって――ユーリシスをあそこまで扱った者は誰もいない。僕だって、あいつがあんなに走れるとは知らなかったくらいなのに」
問題はそこだった。
騎士の名誉を賭けた〈天馬競〉は、歴史を経るうちに意味を変えた。勝利を獲た乗手が讃えられること自体はいまでも変わらないが、その能力を血に乗せ次代に伝え残すものとして、馬の価値がより重くなった。
ゆえに乗手は変更がきく。だが馬は違う。ランダルム組として一度登録した組は、エギル、ユーリシス、バルメルトウという三頭の馬以外で出走することはできない。
そして、最もおだやかな性格のユーリシスは、実はこの三頭中最も癖の強い馬だった。
他馬に勝つために走る馬、そうするよう教えられたから走る馬、褒めてもらうために走る馬、鞭を入れられるから走る馬。もともと走るように生まれついた馬でも、おのれの力を尽くした疾走をするには、それぞれの理由がある。
だが、ユーリシスにはどんな理由もなかった。気立てのいいユーリシスは、その背に赤ん坊を乗せても落とさないように気づかってそろそろと歩くだろう。通常の乗馬の経験がある者が乗れば、普通に走りもするだろう。けれどもそれは、ユーリシスが自分の考えで人を乗せているというだけのことだった。ユーリシスが自分の考えを捨てて乗手の指示に従い、全力をふりしぼって走るのは、その背にランダットを乗せたときだけだった。
「ランダットが出ないなら、〈大天馬競〉で勝負になるとは――」
「わたしが、二走と三走を乗る」
リウはきっと顔をあげた。
「昨日ひと晩考えて、これしかないって思ったんだ。ランダットさんの代わりなんて捜したって無駄だよ、いるはずがないもの。それよりはわたしが乗るほうがまだまし。これまでユーリシスは見てきてる。それに、わたしのほうがシャルスより軽くて、ランダットさんに近いから。ランダットさんにこつを聞いて、これから練習する」
「連続騎乗なんて、無茶だ」
言われるまでもなく、リウにもよくわかっている。〈天馬競〉を一度乗るだけで、翌日は体のあちこちが痛み、数日は全身がだるい。連続して二走三走と乗れるのか、自信などまったくない。それでも、というよりはだからこそ、リウは決意を込めて静かに答える。
「無茶でもなんでも、これしかないもの。だったらやるだけ。最初からそうなんだから」
「いや、僕がランダットのところへ行って、説得してくる。こんなことは契約違反だ。〈大天馬競〉までと約束して、それで礼金の額を決めたんだから」
「ランダットさんへのお礼は、全然法外な額じゃないよ。あの腕だったら、倍払うって組だってあるかもしれない」
「そういう問題じゃない、これは契約と信用の問題だ。あの人はあの年で、自分のしようとしていることの意味も重さもわかってないんだ。すぐにでも行ってくる」
シャルスは本当に歩き出そうとした。
「でも!」
リウはその袖をつかんでひきとめた。
「ランダットさんはちゃんとわたしに謝ってくれた。自分がしていることの意味くらい、ランダットさんはわかってる。だけどローナが病気なんだよ。ランダットさんからしたら、ローナのほうが大切に決まってるじゃない。それにローナだって病気にかかりたくてかかったわけじゃない。これは誰が悪いってことじゃなくて――」
止まったシャルスの袖から、リウの手は離れた。
「……もしひとり選ぶなら、それはわたし」
リウはうつむいた。
「わたしの、運が悪かったから。ううん、それよりわたしの頭が悪かったから。これくらいのことにも対応できないくらい、ぎりぎりすぎる挑戦をしようなんて誘ったから――だからごめん、シャルス。わたしも謝る」
「そんなことはない!」
突然両肩を引き寄せられて、リウの頭から鍔広帽が落ちた。