ライドガール
六 夢見たもの
食堂に入ると同時、リウはすばやく壁に目を走らせた。
ちょっと目を離した隙に幻のように消えてしまいそうな気がして、出入りするたびにそうする癖がついてしまっている。しかし、リボンはいつでも変わらずそこにあった。
〈大天馬競〉――壁に下げられた金銀のリボンを見ながら、リウはいまだにどこか少しそのことを信じ切れない。
ずっと先のような、もうすぐのような。
一か月。
それだけの時間の後、〈大天馬競〉は開催され、リウはその競技に出る。
「ねえ、リウ。誰かうちに来るみたいなんだけど」
台所にいた母が顔をのぞかせた。
リウは夢想を破られてぶるっと頭を振った。
「誰? また馬の仲買人?」
マーセブルッツでの勝利が評判となり、ぽつぽつと商談が持ち込まれている。とはいえ、それらはすべてバルメルトウを買おうというもので、当然リウはすべて断わっていた。
「外に父さんがいるでしょ。相手したくないよ。この前のやつなんか、どうせこんな牧の馬が〈大天馬競〉に勝てるわけがないんだからいまのうちに売れ、なんて言ってきたし!」
「なんだかそういう人じゃないみたいだけど」
「とにかく父さんがいるでしょ」
「牧へ行ったみたいで、姿が見えないのよ。いまちょっと手が離せなくて」
「はいはい、わかりました、行ってきます」
と、外に出たリウの目にも来客の姿が見えた。
「あ――」
母は口ではああ言ったが、客の正体を知っていた。そしてわざとリウにまかせたのだということが、やっとわかった。
体が鋼でできているのではないかと思わせるような、直立不動の騎乗姿勢。鋭い線に裁たれた漆黒の軍服に、腰に吊った細剣が銀色にきらめいている。
乗っているのも、また見事な黒馬だった。全身が夜空のように蒼く見えるほどで、ただ額にぽつんと星、純白の白斑がある。リウに気づいた乗手が合図をすると、黒馬は頭をあげて姿勢を正し、膝を胸まで上げる軽やかな歩調に変えてやってきた。
「リウ・ランダルム?」
馬上から尋ねられて、リウはこくんとうなずいた。それからあわてて「はい」と答えた。
〈天馬競〉は各地の町が主催するものだが、その上に位置づけられる〈大天馬競〉は伝統を受け継ぎ、王の名のもとに国軍が主催する。
軍の使者は敬礼し、背につけた筒をはずすと、中から紙を抜いて両手で上下に広げた。
きびきびした声が読み上げた文のほとんどは、リウの耳をむなしく通り過ぎていっただけで、リウはまったく耳にしたことのない異国の言葉を聞くような気がした。
「――〈大天馬競〉への参加を認める」
突然、その一文が頭に飛びこんできた。それだけでリウには十分だった。
「は、はいっ!」
よく見ればまだ三〇歳前後らしい軍の使者は、思いがけずにこりとした。
「私の相棒もタールーズの産だ。こいつに会えただけでもここへ赴任してきた価値があったと思っている。影ながら応援しているよ」
軍の使者は愛情を込めた手で黒馬の首を叩くと、もう一度にこりとした。
「はい、ありがとうございます!」
使者から許可証を収めた筒を受け取って、リウは彼らが丘のむこうに見えなくなるまで見送った。それから家の中に走り込んだ。
期待するように台所から顔を出した母に、出走許可証、と短く告げて筒を振ってみせる。
「母さん、ちょっと出かけてくる!」
足が飛ぶように軽い。胸がはずむ。リウは再び外へ出ると、バルメルトウを引き出した。
「バルム、行こう!」
〈大天馬競〉出走許可を伝えに、軍の使者は組代表のリウのところへ来た。仲間にその嬉しい報せを伝えるのは、リウ自身の役目だ。喜びの使者の役目を存分に楽しみながら、リウはまず、より近いジョスリイの町へバルメルトウを走らせた。
通りで老医者に会った。
「おおリウ、どうだ、その後は馬から落ちてないんだろうな?」
「いまのところはね。先生は往診?」
笑いながらのあいさつ代わりの質問に、しかし老医者の顔がさっと曇った。
「の、帰りでな。プルノズ農場へ行ってきたところだ」
「えっ」
リウの顔も強ばる。
「けがですか、それとも病気?」
「ああ、そういえばおまえはあそこと友達だったな。けがじゃない、熱だ」
「ランダットさんが?」
「いや、娘のローナのほうだ」
「ローナが……?」
「おととい勤め先から帰ってきたんだが、どうもドヴァ熱にかかったらしくてなあ」
「ドヴァ熱?」
「タールーズじゃ滅多にないが、西部地方でときどき流行する病気でな。ランダットに言われるまで、わしも最初は風邪かと思っとった。イシャーマにはよその地方からの客も多いから、誰かにうつされたんだろう」
「どんな病気なんです?」
「ひと月ほど、一日おきに熱が出たり下がったりしてなあ。いまはひどい熱が出とるよ」
老医者の表情から、ローナの症状が決して軽くないことは容易に想像できた。
「大丈夫なんですか?」
「本人は大変だがなあ。それでも薬は手配してあるし、なによりあのランダットがよくやってくれとるよ。あいつがあんなうまそうなパン粥なんぞ作れるとは知らんかったわい」
「そうですか……」
プルノズ農場に着いたとき、それまでの浮き立つ気分は吹き飛んでいた。
ひかえめに叩いた扉は前触れもなくいきなり開いて、ランダットが顔を出した。表情こそいつもとまったく変わらないものの、看病でろくに寝ていないのだろう。服はよれ、赤毛もいつも以上にぼさぼさで、目の下にはうっすらと隈がある。
「こんにちは、ランダットさん。ローナが熱って……」
「そ、ドヴァ熱。ま、命がどうこうって病気じゃないし、先生も診てくれてるから。さっきパン粥食って、ちょうど寝たとこ」
「どうぞお大事に。あの、わたしになにか手伝えることはありますか? 買物とか」
「ありがと。ま、おれひとりでなんとかできてるから。ドヴァ熱はうつるしさ。あんまりうちには来ないほうがいいよ?」
「そうですか……あの、それから、話は全然違うんですけど」
リウはおずおずと当初の用件を切り出した。
「今日、軍の使者が来て」
ランダットは出走許可証の入った筒を見ると、家の中を振り返り、次にリウを見た。
「それさ。約束だったけど、おれ、だめになった。ごめんな」
「えっ?」
「出れない。だって、ローナがこんなひどい熱だもん。〈大天馬競〉まで練習なんてできっこないし、ローナがその日までにちゃんと元気になるかどうかもわかんないし」
老医者の話を聞いたときから、どこかでこうなることは予感していた。だが、改めてランダット自身の声でつきつけられると、予感は気休めにすらならず、事実は冷たい刃となって容赦なく胸をえぐった。
リウはうつむいた。体の前で握りしめられて小刻みに震える自分の両手が目に入った。
一度この手は全部手放してしまったと思った。もうなにもつかめないと思った。けれどもカズートのおかげで、再びつかむことができるようになった。
もしかしたら、それまでつかんでいた以上のものにまで届くかもしれない――ついさっきまでそう思っていた。
思えていた。
「でも……ローナがもし、それまでに元気になれれば」
顔を上げて、リウはむなしい抵抗を試みる。