ライドガール
リウは軽く帽子に手をかけると、バルメルトウの手綱を引いて馬車から離れようとした。
「待てよ」
カズートが窓から身を乗り出した。
「その格好じゃ、どうせろくな宿に泊まらないんだろ。ちょうどいいから一緒に来いよ」
「遠慮しとく。気詰まり」
「そんな柄かよ。誘ったんだし、おごるぞ」
カズートの口ぶりはあくまでもさりげなかったが、自分のからっぽの財布を見透かされた気がして、リウの声は少しだけ硬くなった。
「借りを作るつもりはないよ。いいってば」
「昔なじみだろ。久しぶりにうちの馬の話、聞きたくないか?」
悟られないよう、リウはわずかに唇を噛む。以前は単純な好奇心でカズートの話を聞いたが、いまはもっと切実な理由がある。どうやったら〈天馬競〉に勝つ馬を育てられるのか、参考になる話があるかもしれない。わたしがしっかりしていればいいんだ、とリウは自分に言い聞かせた。
「……それは聞きたい。だけどご飯もいらないし、眠るのも馬房でいいからね!」
カズートが町に先行させた牧童にとらせていたのは、最上級の宿だった。リウには見当もつかない宿代は厩舎にも反映されているようで、ゆったりと広く、清潔に乾き、替藁もふんだんにある上に、厩舎担当の者もいる。
とはいえ、カズートの連れのつもりはないリウは、担当者にまかせるつもりもなかった。
「どこまで意地っ張りなんだよ」
馬房の入口の柱にもたれて腕組みをするカズートをちらりと見て、リウはすぐにバルメルトウの足もとの藁を整える作業に戻った。
「お金がないんだから当然のこと。最初に言ったよ。ご飯はいらない、馬房で眠るって」
「匂いがつくぞ」
「牧の娘に、いまさら」
「踏んづけられるぞ」
「バルムはそんなことしないよ」
「それは馬のほうが気をつかってるってことだろうが。かわいそうだろ」
リウは立ち上がって馬房から出、カズートを軽くにらんだ。
「だったら馬房の外で眠る。それなら文句ないね?」
「ある。そもそも〈天馬競〉を走った後に厩舎で眠ろうってやつがいるか。疲れてるだろ」
「平気だよ。それに今日は野宿のつもりだったから、屋根と壁があるところで眠れるだけで十分ありがたいよ。イシャーマ牧の話もたくさん聞けたし」
「おれの話は屋根と壁のおまけか?」
カズートの抗議にリウは思わず笑った。
「あ、ごめんごめん。だけど本当に面白かったよ。どんな牝にどんな牡をかけあわせるといい仔が産まれるかとか、冬も雪の中に出しっぱなしにして鍛えるとか」
「参考になったか?」
「……イシャーマとうちとじゃ、やっぱり規模も馬の質も違いすぎるよ。参考なんて」
「知っとくに越したことはないだろ」
「まあね……白状しちゃうと、売ってきたっていう白天馬は見てみたかったな。どんな馬ならそれくらいになれるのか」
カズートは腕を組み直して、バルメルトウに目をやった。
「さっきの〈天馬競〉で勝ちを狙ってるって話だけどな。あれ、本気か?」
「ああ――もちろん本気だけど?」
「こいつでか」
「もちろん」
口では強気に返したものの、バルメルトウを見るカズートの目にどんな表情が浮かぶか、不安がわきあがる。
彼の馬を見る目を、リウは無視できない。カズートが馬好きであることはよく知っていたし、まして大牧の御曹司だ。その目は、当たり前に〈大天馬競〉に出るような駿馬を日々間近に見てきている。リウは無意識にバルメルトウの首をなでた。
「〈天馬競〉で勝てば、副賞の賞品を売ったお金だけじゃなくて、バルムの種付料も期待できるでしょ。このままじゃ廃業しかないんだもの、最後の大勝負に出たってわけ」
馬が思うように売れず、いい牡馬の高い種付料が払えなくなり、ますます仔馬が売れず。ランダルム牧は廃業へと行き着く先細りの道を一直線にたどっている。しかも去年の冬の初めには、牧の低地に水まで噴き出て、牧草も見込めない。
これしかない、とリウは改めて自分に言い聞かせる。〈天馬競〉で勝ち、〈大天馬競〉も狙える馬だと認められれば、その仔を欲しがる者はきっと出てくる。〈大天馬競〉に関心のない馬飼いなどいないのだから。
バルメルトウは生まれたときから不格好で、リウの父の「また売れない馬か」というため息が、その誕生祝いだった。
馬車や乗用の馬は、なによりも見栄えが重視される。多頭立て馬車に使う馬など、毛色、体格はもちろん、顔や脚先に入る白斑までそろえたがる客がいるくらいだ。
バルメルトウは元気で健康な仔馬だったが、やはり買手がつかなかった。配達馬車用の頑丈な小馬を探していた洗濯業者ですら「すぐに折れそうな脚だ」と顔をしかめた。
しかしリウは、バルメルトウが牧を一日中走りまわっても息切れもしなければ汗もかかないことに気づいていた。先に生まれた仲間たちの誰も、この脚ばかりがひょろ長い馬が走り出したら影を踏むことすらできなかった。
〈大天馬競〉に代表されるように、馬の価値を見栄えより脚力に置く世界もある。本来ランダルム牧には縁遠い世界だったが、リウはカズートを通じてその空気を知っていた。
無駄飯食いだとつぶそうとした父との大喧嘩の末、リウはバルメルトウを自分の馬とし、調教をはじめた。ただの乗馬用の調教ではないことに父はすぐに気づき、かぶりを振った。
それまで十日に一度は顔を見せていたカズートがふっつりと現われなくなり、風のうわさに南部に行ったと聞いたのは、ちょうどそのころだった。
初めてバルメルトウをじっくり見るカズートの評価を、リウは冷静な顔を作って待った。
「負ける勝負に挑戦したって意味はないぞ」
リウは脚の横で両手を握った。それでもなんとか表情だけは懸命にとりつくろう。
「バルムじゃ勝てないってこと?」
「そうじゃない」
カズートはバルメルトウに声をかけながら柵をくぐり、馬房に入って馬体に手を置いた。
「……やっぱりな。おまえが入れ込むくらいだから、ただの馬じゃないとは思った。骨も筋肉も見かけよりはるかにしっかりしてるし、鼓動も力強い。いい馬だ」
そんな言葉も真っ先の否定の後ではむなしく響くだけだった。リウの声はついとがった。
「でも天馬を狙えるほどじゃないんでしょ」
「忘れてるんじゃないのか。天馬は三頭そろってなるんだぜ」
バルメルトウを優しく叩いて、カズートは振り向いた。
「おまえ、こいつ以外にいるのか?」
「いないけど、でも他の小さい牧の馬とか、助っ人とか」
「そうだな、どこの競技でも必ずうろついてるな。助っ人仕事で謝礼にありつこうってやつらが。たしかにあいつらにだって走る理由はある。謝礼はもちろん、なにかの間違いで勝ったりすれば、あいつらの得にもなるからな。だがな」
「なに?」
「走る気がある、走ることができるってだけじゃ、勝負までは行けないんだぜ」
カズートは真顔だった。いつものようにリウをからかっているのではない。その顔にも声にも、〈天馬競〉、そして〈大天馬競〉を知っている大牧の人間の重みがある。
視線が勝手にカズートから逃げそうになり、リウはそんな自分にいらだった。
「ん、そうかもね。だけどわたしはその条件でやるしかないんだ。無神経に、人のなけなしの希望までつぶさないでよ」