ライドガール
「きみのところの牧へ出入りしていたあいだに聞いたよ。あの洒落者の四男だけじゃなくてきみも、将来の結婚相手を南部の貴族の姫君から選ぶことになったそうだね。今年の〈大天馬競〉で天馬を獲って、それを手土産に堂々むかうと聞いたよ。あの馬たちにふさわしい黄金のような姫に贈るとね。だから組の名も《黄金姫》とつけたそうじゃないか」
カズートがやっと言い返す。
「誰に聞いたか知らないが、おれが行くのは兄貴の供でだ。〈天馬競〉に出している馬も、たしかに伯爵に贈る予定だが、おれのじゃない、親父のだ。組の名前をつけたのも兄貴だ」
「無理はしなくていいよ。一年も帰ってこなかったんだ、よほど南部が気に入ったんだろう。馬への興味もなくしたようだし、一体どうして帰ってきたんだい」
「なんだってそんなことを言われなきゃならないんだ!」
「不思議だからさ。帰ってくる必要なんてなさそうなのに。実際そんなスカーフで着飾って、もうすっかり貴族の若さまのようじゃないか」
「これは――」
「ある意味、感心するよ。きみこそよく人のことに口をはさんでこれるものだ。それともイシャーマの一族なら当然許されると思っているのかい? 恵み深き御曹司のお情けをかけてもらった者は皆、喜びの涙を流してありがたがるものだとでも?」
カズートの足が止まった。
「やめて!」
リウは道の上から叫んでいた。カズートがこれ以上傷つけられる姿を見たくない、ただその一心だった。
ひっぱたかれたように振り向いたふたりが、リウを見上げた。
自分で叫んでおきながら、彼らの視線にさらされることが耐えきれなくなる。リウはとっさに身をひるがえし、彼らとは逆の方向へと走り出した。
リウ、と呼んだシャルスの声に、カズートの声が重なった。
「待ってろ! おまえの馬は、絶対におまえに返すからな!」
彼の声に背中を突き飛ばされるように、リウはさらに加速した。
足音が追いかけてくる。
「リウ!」
呼ばれて腕をつかまれるより先に、リウはそれがどちらの男なのかを知っていた。
「リウ……来てたのか」
ほんの少しだけ息を切らせていたのはシャルスだった。彼は優しく微笑んだ。
「けがは、どう?」
リウは答えることなく、目をそらせた。
「ごめん、もう帰る」
「大丈夫かい? 送ろうか?」
「平気、馬車だから。……ごめん」
「それは、なにについて? お茶もしていかないことかい、それとも〈天馬競〉に出られなくなったことかい」
シャルスはリウの恐怖心を知っていた。そのことがよけいに、彼を見ることをできなくさせた。リウはますます顔をそむけた。
「二番目のことなら、気にすることはないよ。しょうがないことだったんだ。必要以上に自分を責めるのはよくない。胸を張っていい。きみはよくやった。世界中のどんなやつにだって、僕はそう言える」
だけどわたしは――リウは自分の手に視線を落とす。うんざりするほど無力な手。結局この手はなにもつかめなかった。それまでつかんでいたものまで手放してしまった。
「……また相談に来る。馬たちのこと」
「ああ、待っているよ。いつでもいいから、そのときはお茶を飲んでいってくれ」
リウははっきり答えもうなずきもしないまま、荷馬車でランダルム牧へ戻った。そして父に見つからないうちに厩舎へと逃げ込んだ。
いまの時間、馬たちは牧へ出されて、馬房はすっかり空になっている。
昔より馬が減って空いた馬房の多い厩舎はそうでなくても寒々しかったが、いまはなおのことだった。ことに、寝藁も敷いていないバルメルトウの馬房は。
バルム、と飾り文字を刻んでやった木板が、むなしく馬房の柱にかかっている。
とっさにリウは木板をつかんで窓から投げ捨てた。それから壁にもたれて座り込んだ。下を向くと涙がこぼれそうな気がする。リウは頭をのけぞらせて上を向き、目を閉じた。
頬に感じる陽射しは移ろい。
いつのまにか、リウは半ば眠ってしまっていたのかもしれない。馬車の車輪の音にも足音にも気づけなかった。だから窓から降ってきた声は突然だった。
「やっぱりここか」
ぎくりと体がひきつった。
「かっ――」
カズート、という言葉が、声にならない。
「安心しろ、すぐ帰る」
カズートはそう言ったが、リウは背が触れた壁板に彼の体の重みを感じた。
厩舎の外、リウとは壁を挟んだ背中合わせに、カズートが座っている。
「おまえ、出ろよ」
「……」
「怖いのは、落ちた人間だけじゃない。落とした馬もだ。おまえもさっき見てただろ。バルメルトウがどれだけ嫌がってたか。あいつに鞍をつけるまでも大変だったんだぜ」
「……」
「でもな、あいつは絶対もう一度走るようになる。走らせてみせる。あいつは走るために生まれてきたんだ。だから走らせてやらなきゃいけない」
「……」
「あいつもこれからがんばるんだ。だからおまえもがんばれ。やれるだけのことは全部しろよ。結果もしだめだったとしても、自分をなにもできない臆病者、大事なところで逃げ出した卑怯者だと思い続けてこれから先ずっと生きてくよりは、いくらかましだろ?」
壁から重さが消えた。
「ま、これはおれの考えだ。おまえがどうするかは、おまえが自分で決めればいい。ただ、あいつはまた走れるようになって、必ずおまえのところに帰ってくるからな」
さっき捨てた木板がぽんと落ちてきた。
のろのろと体を伸ばして引き寄せようとしたリウの頭に、続けてふわりと、ひどく柔らかなものが降ってくる。
「あいつを天馬にしてやるのは、おまえの役目なんだぞ。それだけは忘れんなよ」
遠ざかる足音を聞きながら、リウはするすると頭から滑り落ちようとする布を取った。カズートの絹のスカーフだった。
ぎゅっと両手で握りしめる。
これは返さなきゃ――きつく唇を噛みしめながら、自分に誓う。
返しに行かなきゃ。
ちゃんと勝って、胸を張ってカズートに返しに行かなきゃ。
ありがとう、って言いに行かなきゃ。
永遠にそれができないまま終わるより怖いことなんて、なにもないんだから――リウは立ち上がり、きっと顔をあげた。
†
五日後、丘を越えてランダルム牧にやってくるひとりの男と二頭の馬を見つけたとき、リウはすぐさま自分がまたがる老馬をそちらに走らせた。
「シャルス!」
エギルの鞍にバルメルトウの手綱を結びつけてつれてきたシャルスは、出迎えたリウに微笑んでみせた。その笑みは少しだけこわばっていた。
「バルメルトウを返しに来たよ」
リウが聞くより早く、彼は疑問に答えた。
「もう心配ない。うちの牧からここまで、バルメルトウはずっと素直についてきた。元のままのバルメルトウだよ」
それからシャルスは、眉をわずかによせてリウの顔をのぞきこんだ。
「きみの、そのけがは?」
リウは肩をすくめて小さく笑い、かさぶたになった鼻の頭のすり傷を指の腹で押さえた。
「昨日、ちょっと落ちちゃって。見られなくてよかったよ、顔から落ちるなんて、あんな格好悪いのはさすがに初めてだったから」
「大丈夫だったのかい?」