ライドガール
リウはシャルスを見上げた。そしてきつく唇を噛んだ。
シャルスの手が再び置かれたことで、リウ自身にもはっきりとわかってしまう。おだやかに上から押さえる手に逆らうように、ぶるぶると震えている自分の左の肩が。
「送るよ、馬車で」
リウは体に固定された右腕を抱えた。そのまま爪を立てる。包帯越しに爪が食い込む皮膚だけでなく、肩も肘も手首も苦痛を訴える。だがリウは力をゆるめない。シャルスの言葉に一瞬ほっとしてしまった自分を罰するように、かえってさらに指に力をこめる。
それなのにどうしてもひと言が出てこない。
――怖くなんかない。
たったそれだけの言葉を言うことを、舌も唇も拒否している。
「残念だけれどここまでだったんだ、リウ」
リウはありったけの意志をかきあつめてかぶりを振ったが、その動きは髪ひとすじそよがせることもできないほど弱々しかった。
「――やめよう」
その言葉を聞いてしまった瞬間、リウは目をつぶった。
†
「リウ、あいつはどうするんだ」
朝食の席で父がぶっきらぼうに聞いてきたのは、落馬から二日後のことだった。
父がバルメルトウのことを言っていることは、すぐわかった。
あれからリウはシャルスに馬車で送ってもらったが、バルメルトウはまだノア牧にいる。
「だって、シャルスからまだなんにも言ってきてないから。ユーリシスとは仲もいいし、バルムも居心地がいいのかもね」
父は無愛想に目線を落とし、自分のパンを割いた。
「うちの馬だぞ」
「だけど、わたしもまだこんなだし」
帰ってきたリウの包帯姿に大騒ぎした母もいまはようやく安堵の息をつき、リウも少しずつ牧の仕事を手伝いはじめたが、それでもまだ薬を塗りつけた包帯はとっていない。
本当はとれるのかもしれない。風呂に入るときは当然とっていて、そこで肩や手首を動かしても、もはや息が止まるほどの痛みはない。だが、リウは包帯をとることをためらった。昨日こちらにも往診してくれた老医者も、きちんと治さないとな、とリウに言った。リウは素直にうなずいた。
「預かり賃はどうする。どこから出す気だ」
「シャルスは気にしなくていいって言ってくれてる。もちろん、後でちゃんと返すつもり」
父はパンを口に放り込み、噛み砕いて飲み込んでから、やけに静かな口調で言った。
「どうせなら、ノア牧のより、イシャーマ牧のに頼ればいいじゃないか」
「父さん!」
リウは席を立った。
「どうせ頼るなら、頼りがいのあるほうがいいだろうが。それとも、おまえの好みは青毛じゃなくて鹿毛なのか」
「やめて!」
「まさか本当にあのお坊っちゃんと喧嘩したんじゃないだろうな? だったらすぐに謝ってこい、とにかく許してもらうんだ」
「喧嘩なんかじゃない。それに父さんには関係ないでしょ」
「関係ないとはなんだ!」
うろたえるばかりの母をはさみ、リウと父はにらみあった。
「……どの口で関係ないなんて言えるんだ」
父が低い声で言う。
「おまえはこの牧をたたみたくないと言ったな。本気でそう思うんなら、天馬だなんてばかな夢を見てないで、もっとたしかな手をどうしてとらないんだ」
「やめてよ!」
「イシャーマの息子だぞ。うちの牧のひとつやふたつ、簡単に買える。なれるかどうかもわからない天馬なんかより、こっちをあてにするほうがずっと確実で、しかも簡単じゃないか。おまえだってあのお坊っちゃんのことは嫌いじゃないんだろう」
「やめてってば!」
「むこうだって、昔からああもやってくるんだ。おまえからその気になってみれば」
「やめて!!」
リウはあらん限りの声で怒鳴った。
だが父は無視した。
「もしかしたら、イシャーマの息子の嫁になれるかもしれないぞ」
リウは呆然と父を見つめた。直前まで暗く沸き立っていた心の一部がすっぱりと切り離されてしまったようで、いまは不思議となんの感情もなかった。見飽きるほど見てきた父の顔が、まったく初めての顔に見えた。冷たい、醜い顔だった。リウの気持ちなど理解するはずのない、その必要すら考えたことのない顔だった。
「……ばかな夢」
リウはふらりと席を離れた。
「どこへ行く!」
答えないまま食堂を出ようとしたリウに、さらに声がかけられる。
「おれの目は節穴じゃない。おまえ、落馬で馬が怖くなってるんだろう」
びくりと肩が勝手に震えた。リウは足を速めた。
それでも無情な声は追いかけてきた。
「そんな状態で〈天馬競〉なんか、絶対に無理だぞ!」
リウは耳をふさいで外に出た。
朝食後に東の端の柵を直しに行くと言っていた父が乗るつもりなのだろう、茶色の老馬が、馬装もすませてつないであった。
「おはよ、ちょっと乗せて」
リウはおとなしい老馬に声をかけ、鞍に右手を置いた。左手で手綱とともにたてがみをつかむ。もう後は目をつぶってでもできる。鐙に左足をかけ、右足でぽんと地面を蹴って、体を鞍に乗せればいい。子供のころから毎日毎日、日々何度もくりかえしてきたことだ。
だが。
「――」
リウはそのまま立ちすくんだ。
体が意志とは関係なく震えている。どうしても膝に力が入らない。左足があがらない。右上半身の痛みが、まるで警告するかのように激しくなる。
馬とはこんなにも大きな生き物だったろうか。そして自分はこんなにも小さく無力だっただろうか。
落馬した瞬間に見た空の色が目の奥によみがえる。真っ青すぎるその色は、どこまでも美しく、どこまでも冷たくて、意識がすうっとその中に落ち込みそうになる。
その色と同時に、なぜか自分の姿が見えている。地面に投げ出され、まるで壊れた人形のような体が。
奇妙な風の音と思ったのは、自分の荒い呼吸の音だった。そうと気づいたリウは、手綱を放り出して走り出した。
「……か……」
漏れた声は自然に消える。リウは唇を噛みしめる。
無性にカズートに会いたくて、そのくせ二度と会いたくなかった。どんな顔をして会えばいいのか、それを思うと決して会えないと思った。
持てる者と持たざる者。
南部の貴族とも肩を並べる大牧の息子と、牧童のひとりも雇えないちっぽけな牧の娘。
丘に馬に乗った人影を見つけると、リウは口ではぶつくさぼやきながら、やかんを火にかける。ひらりと鞍から飛び降りる彼を迎え、また来たと呆れてみせながらお茶を出す。
馬の話と、くだらない言い合いと。カズートが南部へ行ってしまった一年前、特別なことなどなにひとつなかったそんなひとときが失われて初めて、リウはそれがどれだけ自分にとって大切な時間だったのかを自覚した。
その途端、これまでまるで関係ないと思っていたそれぞれの牧の差が、カズートとのあいだの壁となり、溝となった。彼が来ないか期待し、来なくて寂しいと感じてしまうことが、単純な気持ち以外の卑しい計算を意味しているような気になってしまった。
大切な時間を汚さないよう、だからリウは自分の感情に蓋をした。彼が戻ってきても、あるいは二度と戻ってこなくても、それまでと変わらない同じ自分でいることを決めた。