ライドガール
そのとき、言い争う男たちの声が聞こえた。
ひとりはカズートだった。リウはあわてて厩舎の窓辺にはりつき、外をうかがった。
中庭に長々と影を落としてこちらに大股に歩いてくるカズートを、牝馬の持ち主だったあの男がまとわりつくように追っている。
「やいやい、これっぽちの端金であいつを持ってく気か! あいつはおれの相棒だぞ!」
大きく傾いた日が影を落とすカズートの顔は、いつもにも増して鋭く見える。
「なにが相棒だ、体調の悪い馬を走らせて疝痛で殺しかけたやつが、笑わせんな」
やっぱり、とリウはわずかに眉をひそめた。馬は疝痛――腹痛を起こしやすい。放っておくと、苦しみ抜いた末に死んでしまうこともある。水を飲ませて歩かせ、症状が落ち着いた後もこのように口かごをつけて絶食させて、しばらく様子を見なければならない。
馬を扱う人間にとっては常識だ。男の顔が真っ赤なのは、夕日のせいではないだろう。
「う、うるせえ! おれが取り上げて育ててきた馬だぞ! おれが一番わかってらあ!」
「ああ、馬だってわかってるだろうよ。走ったばかりの、しかも具合の悪い馬をほったらかしにして早々に酒場行きとはな。おまえはどうしようもない、やられっぱなしの大まぬけだ」
「せ、世話の前にちょいと一杯ひっかけようとしただけだ!」
「だから好きなだけ飲んでろよ。馬を手放せばいくらだって飲んだくれてられるぜ」
「よけいなお世話だ! とにかく返せ!」
カズートは財布をつかみだし、ちょうど自分の前に回り込んだ男に投げつけた。
「てっ!」
男の胸にぶつかった衝撃で財布がひらき、澄んだ音をたてて金貨が中庭に落ちる。まるで星が出る場所を間違えたかのように、そこかしこがまぶしい金色にきらめいた。
「まだ不満か」
男ははっとカズートを見上げると、すぐさま這いつくばって散らばった金貨をかきあつめた。そしてもう一度、地べたからカズートを見上げた。
「い、いえ、考えてみりゃ、あいつもイシャーマ牧に行くなら幸せってもんで……へへっ」
冷たく見下ろす鋭い目に、金貨と財布を両手でかかえこんだ男は卑屈な笑い声をあげる。
「行けよ」
「へ、へえ、どうも、若さま」
男がカズートを気にしながら中庭を出ていっても、再び大股に歩き出したカズートはそちらをまったく見ようとしなかった。
厩舎の前、馬が一頭もつながれていない横木にさしかかって、不意に立ち止まる。
あ、とリウが小さく声をあげるのと同時、カズートはその支柱を思いきり靴底で蹴りつけた。音が中庭に響き、空の横木が目に見えて揺れるほどの勢いだった。
「カズート……」
リウはつぶやいた。
金では買えないものがある。だが、買えるもの、買えてしまうものもたしかにあって、それを買ったカズートは、むしろ買えたがためにいらだっている。金で人の心を変えた自分自身に怒っている。
「どうしたんですか?」
ローナの声に、はっとわれに返る。
「そうだ、ローナ。わたしはここにはいないことにして!」
返事も待たず、リウはすでに暗くなった厩舎の隅の空いた馬房に飛びこんだ。
「え、えっ? ――あ、カズート若さま!」
ローナの声に続き、カズートの声がする。
「なんだ、見に来てたのか」
「あ、えと、あの――その、リウさんに見てもらってたんです」
自分の名前が出た後の一瞬の沈黙に、リウは息を止めた。
「――預かるって、あいつ、言ったか?」
「あ、は、はい! ……あの、どうしてわかったんですか?」
「別に」
ぶるる、と馬が鼻を鳴らす。聞き取れない低いカズートの声は、ローナではなく、馬に話しかけたものだろう。
ためらいがちにローナが切り出した。
「あの、若さま、御用はございませんか?」
「今日は好きにしてていいって言っただろ。父親とお祝いでもしてきたらどうだ。あの宿の食堂が気に入らないなら、こっちに連れてくればいい」
「いえ父は、あっちの宿のほうが気が楽だって絶対に言うと思うんですけど。……あのう」
「なんだ」
「若さまのご親切には、あたし、ほんとにほんとに感謝してます。父もここの〈天馬競〉に出るって知ったから、それであたしに会わせてやろうとしてくださったんですよね」
「宿を押さえておいてもらっただけだ。おれは昨日まで来られなかったから」
「でも、こんなすぐに父の宿まで調べてくださって」
「ついでだからな。せっかく同じ町にいるのに会わないままなんて、ばかがすることだろ」
「あのう、だけど、そんなによくしていただくと、もったいないっていうか、どうしたらいいかわかんないっていうか……」
「気にしなくていい、おれの勝手だ。この馬を押しつけたのも迷惑だったよな」
「い、いえ、そんな」
「ダールグ兄貴がうるさいんだ。助けると思ってもらっといてくれ」
「はあ……」
「とにかく気にしなくていいから、お祝いに行ってこい」
「は、はい。あの、でも、若さまは?」
「こいつの様子を見てる」
「牧の人を呼んできましょうか?」
「たいした時間じゃない。それに、あいつらも祝杯をあげてるはずだ。邪魔するな」
「ですけど、勝ったのは若さまの馬ですよ?」
「おれのじゃない、親父の馬だ。いいから早く行ってこい。日が暮れるぞ」
「あ、は、はい、すみません!」
小さな足音がためらいがちに去っていった。
窓から入る夕明かりも、次第に暗くなってきている。
「あのばか、おまえに乗ってたやつを帽子で殴りつけたんだって?」
灰色の馬に話しかけているらしい、カズートの声がした。
「おまえも驚いただろうな。だけど許してやってくれよ。それくらいの本物のじゃじゃ馬でないと、〈天馬競〉なんて勝てないんだ。あいつの二位は、バルメルトウだけじゃなくてあいつも本物だったってことだ――よかったよ」
カズートは息をついた。吐息にはわずかな笑い声がまじっていた。
「あいつ、口先ばっかりだからな。日ごろは威勢のいいことを言ってるくせに、妙なところで気が弱いんだ。ああ見えて、これまで誰かをひっぱたいたこともないんだぜ。鞍を引きずられて落馬しそうだったのは自分だっていうのに、それでも相手を落馬させたことをうだうだ悩んでたんじゃないかと思ってた」
む、とリウは唇を曲げる。カズートの推測の正しさは認めるしかないが、それでもこうも的確に言い当てられるのは口惜しい。
声はさらに続く。
「でも、おまえを見に来て、預かるって言ったんだろ。落ち込むよりおまえとローナを心配する気持ちのほうが勝ったわけだ。あいつもこの一年で、少しは大人になったんだな」
偉そうに、とリウは内心言い返す。頭の中で彼への文句を並べ立ててやろうとする。
だが。
「っ……」
衝動は突然だった。
熱い固まりが胸の底からこみあげて、喉につかえた。
すぐに瞳の奥が反応する。じんとした熱が涙となってこぼれ落ちる前に、リウは曲げた両膝を抱え込んで顔をきつく押しつけた。
――本気で『カズート若さま』って呼ばせたいの!?