ライドガール
〈天馬競〉の全競路は十八リーグにもなり、主催側もそのすべてをいちいち監視などしていない。入りこむ部外者がいないとは言えないが、名誉の競技として尊重される〈天馬競〉を邪魔するような者は、少なくともリウはこれまで聞いたこともない。
出走者だ。
だが走りに鋭さはない。脚の伸びは悪く、運びもぎこちなく、すべてが重そうに見える。
バルメルトウはぐんぐんと距離を詰めていく。
もうはっきりと馬と乗手が見える。あの灰色の馬と男だ。
男もリウの接近に気づいた。乱暴な声がし、丸められた男の背がぐいぐいと動きだした。
「ひどい……」
リウはつぶやく。
馬の首を押してやれば走りの助けになる。だが、このような長距離で、しかも走れるような状態ではない馬をそうするのは、馬の気持ちを無視した乗手の暴力でしかない。
バルメルトウが並びかかる。
「やめなよ!」
リウは顔をねじむけて叫んだ。
歯をむいた男の顔は、人というより獣のようだった。
「うるせえって言ってんだろ!」
「でも! ここで勝ったって、その子が無茶のせいで壊れたらなんにもならない!」
直後、男の目もとが不意にゆがんだ。
それが笑顔なのだと理解するまでやけに時間がかかり、そして理解した瞬間、リウはなぜかぞっとした。
「……だったら、ちょいと助けてもらうぜ」
灰色の馬がぐらりとこちらによろけかかった。
とっさにバルメルトウをよけさせようとしたが、反射でしかないリウの合図より、最初からその行動を計画していた男の手のほうがわずかに早かった。
「っ!」
ずるりと鞍が引き戻された気がした。
体を傾けた男の手が、バルメルトウの鞍下に置いたキルトをがっしりつかんでいる。男の手で二頭の馬は結びつけられ、速力に勝るバルメルトウはいまや灰色の馬をひきずりながら走っていた。その脚にかかる負担は、いつもの倍だった。
「やめて!」
リウは叫んだ。怒りと、それよりもさらに大きな恐怖で、自分の声が裏返ったことにすら気づけなかった。
「へん、ちゃんと女らしい声も出せるじゃねえか」
男はキルトをさらに手の内にたくしこんだ。体の下でずるりと鞍まで動いた気がした。
馬体に触れる足と手綱から、バルメルトウの困惑が伝わってくる。思うように走れない困惑はまもなく苛立ちに変わり、そしてバルメルトウの性格ならば無理やりにでも飛び出そうとするだろう。
この不安定な状態で、そんなことになったら――リウの全身の血は逆流しそうだった。
「やめて! 離して、離してよ!」
「女の泣き声は嫌いじゃねえんだよな、特に生意気女の泣き声はな」
「こんなことして、どんな意味があるの!」
「あるんだよ、いろいろとな!」
「どこまで自分の馬をばかにする気!? 馬だけじゃない、自分自身まで!」
「自分をばかにして勝てるんなら、いくらでもばかにしてやらあ!」
男の手は離れない。それよりも刺し縫いにした丈夫なキルトの布地が裂けるほうが、まだ可能性が高そうだった。
その間もバルメルトウは走っている。四肢にかかるいつもの倍の重さと、そして片側にひきずられる不快な感覚を必死にこらえている。
リウは男の手をはらおうとしたが、体をひねった無理な姿勢で、しかも女の力ではたく程度では、男の手はびくともしなかった。
わたしがバルムを助けなきゃ――リウはとっさに自分の鍔広帽をつかみ、半ば投げつけるようにして鍔のへりで男の目もとを薙ぎはらった。
「がっ!」
男が悲鳴をあげて両手で顔を覆った。
不意に自由が戻った。リウはすかさず体を前に倒した。バルメルトウは一気に加速した。風は耳もとでうなりをあげて、鍔広帽を失ったリウの髪を大きく背後に跳ね上げた。
心臓がどくどくと壊れそうな激しさで動いている。
男がどうなったのかわからない。あのまま落馬したかもしれない。もしかしたらけがをしたかもしれない。自分はとんでもないことをしてしまったのかもしれない。けれども、あれ以外どうすればよかったのか、まったくわからない――混乱する思いが、さらに鼓動を激しくさせる。
このまま胸が破裂して死んでしまいそうだった。リウは片手を離して胸もとを押さえた。
手綱の力が変わったことを不審に感じたバルメルトウが、わずかに速度をゆるめた。
「――ごめん、バルム!」
自分にかまけている場合ではない。リウはすばやくぴしゃりと自分の頬を打って、また両手で手綱を取る。
バルメルトウとリウはともに〈天馬競〉を戦う仲間なのだ。実際に走るのは馬といっても、その背にただ乗っているだけでは、乗手は鞍の上のお飾り人形と変わらない。リウにはリウの役目がある。バルメルトウを心地よく走らせるという役目が。
「行くよ、フラシコまで一直線に」
バルメルトウの脚にまた力が戻った。
やがて、あたりは整地された葡萄畑ばかりになり、リウは広々とした道の果てのフラシコめがけてさらにバルメルトウを走らせる。
葡萄の葉で飾られた門を一気に駆け抜けると、左右から観客の祝福の声が降りそそぎ、銀糸がきらめくリボンを持った係員が迎えてくれた。
だが、そこにはもう月毛の馬はいなかった。
†
バルメルトウの馬房の前で、リウはずっと座り込んでいた。
長時間騎乗した体は節々がこわばり、背のあたりが特に痛む。本当ならすぐにでも休みたい。だが、シャルスが個室をとってくれた今夜の部屋に戻る気が、なぜか起きなかった。
「……二位、か」
リウは指先に引っかけたリボンを顔の前にぶら下げた。あれだけ欲しいと熱望していたものをこうして手に入れたのに、少しも心は晴れない。リウは両膝に顔をうずめた。
厩舎に人の気配がした。
リウはびくりと体をすくませ、だがそのまま顔は伏せていた。
「――リウ、お祝いをしないか。ささやかなものだけれど」
シャルスの声を聞いてやっと、リウは顔をあげた。
「ありがとう、だけどいいよ。余分なお金はないから」
もともとは騎士の名誉を賭けた挑戦だった〈天馬競〉の賞品は、本来勝利や完走を讃えるリボンだけだ。だがいまの〈天馬競〉は大きな祭であるのと同時、開催する町の力を四方から集まる見物客に誇示するという面が大きい。よってどこの町でも一位と二位には豪華な副賞をつけ、勝者に贈る。
フラシコの町の副賞は、去年フラシコ一番の出来と認められた葡萄酒の大樽だった。もちろん持ち帰っていいのだが、そのまま町の葡萄酒商人に引き取ってもらうこともできた。
リウは自分の取り分をそうして現金に換えると、シャルスにはこれまで立て替えてもらった費用を、またランダットには助っ人の礼金を支払った。それでも手もとにはまだ残っていたが、それも今後の参加費用にあてるつもりだった。
「費用は気にしなくていいって言っているじゃないか。これは僕の戦いでもあるんだ」
「そう、だからシャルスは払ってくれてる。だけどこれは、わたしの戦いでもあるよ。それなのに義務を果たさないなんて、自分でいやだ。自分の分は出させて」
「そうか。じゃあ今日は、気分をよくした僕のおごりということで受けてくれないか。初めての〈天馬競〉で自分も四位、組も二位だったんだから」
リウはシャルスを見つめ、静かにかぶりを振った。