ライドガール
たしかに、すでに金糸のリボンの行方は決まっているかもしれない。それでも銀糸のリボンはまだ残っている。リウは観客としてここに来たつもりはない。勝利を勝ち取り、〈大天馬競〉への出場権を獲るためにここにいる。
お願い、とリウは口の中でつぶやいた。
ランダットがノア牧で選んだ馬は、以前ダールグに買い取りを拒否されたユーリシスだった。シャルスは別の馬をランダットに見せようとしていたのだが、彼は通りがけに見かけたこののんきそうな馬に目を止め、こいつ、と簡単に決めた。
「こいつは真面目に走るよ」
ユーリシスは、性格のいい、優しい馬だとリウも思う。しかし走る馬、それも〈大天馬競〉に勝ちうる馬だとはとても思えなかった。けれどもランダットが勝ちたいならこの馬だと主張したため、シャルスもリウもその意見を認めるしかなかった。
半馬身差の四位で旗棒を渡されて、ユーリシスは前の馬に追いつくことができただろうか。考えれば考えるほど、むしろますます差を広げられるさまが浮かんでくる。
「……だけど」
〈天馬競〉は、まっすぐで短い草地の競路を駆け抜ける草競馬とはまったく違う。競路は長く、曲がり、荒れて、自然のままの坂も少なくない。そんな厳しい競路を長時間走らされる馬の中には、すっかりくたびれて、走ることにうんざりしてしまう馬もいる。ユーリシスが真面目に走る馬だというのなら、少なくともそうしたことはないだろう。
「がんばって。がんばって」
リウはまた手綱とともにバルメルトウのたてがみに指をからめる。
わずかにバルメルトウが身じろいだ。
リウの指のせいではない。不注意なほど近くを、あの無礼な男が灰色の馬にまたがって通りがかったせいだった。
「気をつけて!」
リウは抗議した。馬は本来臆病な生きもので、不意にひきあわされれば、相手が同じ馬といえどもおびえて混乱する。運が悪ければ思いがけない事故にとなりかねない。
だが、男は鼻を鳴らしただけだった。
「気をつけるのはそっちだろうがよ。ちゃんと聞いとけ、次に来るのはうちなんだぜ」
二位と発表があったマグファル組の者らしい。
リウはむっと眉根を寄せながら、バルメルトウと相手の馬とのあいだに体を入れる。
「礼儀正しく名乗ってもらえたんなら、そういうこともわかったかもしれないけどね!」
「ああうるせえな、女の声は甲高くて耳に痛えや。おとなしく台所で歌でも歌ってろよ」
「わたしにかまうより、自分の馬を気づかってやったら」
「うるせえ! おれの馬はおまえと違って使える女なんだよ!」
東にまた一騎、姿が見えた。
「急げ、こっちだ! 来い、急げ、ぐずぐずするな!」
鞍上の男は、片手を振り上げたり西を見たりと、あわただしい。
そのたびに身じろぐ灰色の馬の足踏みは、先ほどの月毛の馬とは違い、気合いを入れているのではなくいらついているだけだ。リウは目を細くする。だが、この哀れな馬のためにできることは、まったく見つからなかった。
「くそっ!」
奪い取るように仲間から旗棒を受けると、男は馬の腹を思いきり蹴りつけた。馬は半ば躍り上がるようにして駆け出した。ぱしっ、とかすかに風に乗って聞こえた音は、男が早くも入れた鞭代わりの平手だ。
男は勝負をあきらめていない。先行してとっくに姿も見えなくなった月毛の馬を追いかけ、追い抜くつもりなのだろう。
それは競技においては褒められるべきことなのかもしれなかった。けれどもリウにはどうしてもそう思えなかった。
「嬢ちゃん、ランダットと組んでるランダルム組ってのはあんただろ? 出番だぜ」
灰色の馬の行方を見つめていたリウは、その声にはっとわれに返った。
先ほど肩をすくめてみせた初老の男が、東を指さしている。
「帽子もかぶらないであの赤毛頭を見せびらかしてるのは、あいつくらいのもんだ」
ちょうど雲の切れ間からのぞいた陽射しが馬と人とに降り注ぎ、それぞれの毛をそれぞれの色にきらめかせている。日ごろは熟し切った大麦のようなユーリシスの毛色は、いまは天頂高く輝く太陽のようだ。その上下する馬首のむこうに、赤毛が見え隠れしている。
リウはバルメルトウにまたがった。頬はむしろ冷えてきているのに、その内側にかあっと熱い血がのぼっていく。興奮してる、とリウは自分自身を分析し、知らず笑う。
三位。こんな上位で旗棒を受け取ったことは、まだ一度も経験がない。シャルスとエギルが、そしてランダットとユーリシスが、この順位を勝ち取ってくれた。バルメルトウに初めて他の馬とのまともな勝負の場を与えてくれた。
ユーリシスが、そしてランダットが来る。
「リウ、気楽にな」
なにより本人がそう実践しているに違いない顔で、ランダットは旗棒を差し伸べた。
「ん!」
リウは旗棒を受け取ると同時に、バルメルトウの腹を軽く蹴った。ぐんと心地よい手応えが返り、バルメルトウは走り出した。
旗棒を背のベルトにねじこみながら、リウはユーリシスの顔つきを思い出す。馬は自分の走りに満足したようにいつもよりなお楽しげで、まだまだ走りたそうな様子だった。
リウはぴんと前をむいたバルメルトウの耳にむかって話しかける。
「わたしたちも楽しく走って、そして勝つよ、バルム」
事前の準備は十分とは言えない。宿代がなく競路を自分の目で見ることは叶わなかったが、それでもシャルスやランダットが人脈や過去の経験から情報を集めてくれた。
だから知識はある。フラシコの三走の競路は、前半と後半でがらりと様子を変える。
前半は、ほぼ人の手の入ったことのない草地になる。野鼠や野兎の巣穴、草に隠された思いがけないぬかるみや岩に注意し、馬に足場のよい場所を走らせてやるのが乗手の役目だ。リウは少しの異変も見逃さないよう、次々迫る地形に目をこらす。
馬の背は、リウが楽々後ろに寝転がれるだけの広さがある。しかし〈天馬競〉で疾走する馬の背にかぎっては広くはない。
疾走する馬の邪魔にならないよう、〈天馬競〉ではできるだけ馬に触れる自分の面積を少なくする。鞍にすべての体重を預けて座ってしまうのではなく、盛り上がった鞍の前部に体を押しつけながら、鐙の上にほぼ自力で立つのだ。
町育ちの娘より体力はあると自負していたリウだが、初めて出た〈天馬競〉では脚がつった。それほどの負荷が体にはかかった。しかしリウが楽をした分はすべて、バルメルトウが引き受けることになる。それを思えば、完全に座ってしまうことなど考えられない。
行く手、短い若草の生えた地表が一部見えない。窪地だ。迂回か跳躍か。リウは瞬時に判断し、手綱で合図を送る。
バルメルトウはわずかな手綱の力加減をすぐに悟り、地面を蹴る。
一瞬ふわりと空を飛んだリウの体を、すぐに着地の衝撃が襲った。リウはそれをできるだけ柔らかく受け止め、かつ上体も揺れないように精いっぱい踏ん張って、バルメルトウの体勢をくずさないように努めた。走る馬でも二時間はかかる六リーグの競路はまだ続く。バルメルトウの脚に少しでも楽をさせてやらねばならない。
「――あ」
風防布の下、リウは小さく声をあげた。風に細めた目に、なだらかな坂道を下った先を走る馬の姿が飛びこんだ。