ライドガール
「うるせえって言ってんだろ! おまえみたいな道楽で出てるのと違うんだよ!」
「わたしだって道楽なんかじゃない!」
リウはかっとなった。
「わたしにだって、絶対に勝たなきゃいけない理由がある! だけど!」
叫ぶと同時、先ほどの答が出た。リウは男を真っ向から見つめるために胸をそらせた。
「それは、バルムがいてくれなきゃ絶対にかなわないことだもの! もしバルムの具合が悪いなら、わたしはあきらめる。バルムだったら次こそ勝つって、信じられるから。自分の馬だよ、どうして信じてやれないの?」
「うるせえ、うるせえうるせえ! 次こそって簡単に言ってくれるじゃねえか! そう簡単に次がねえやつだっているんだよ!」
「だけど馬がいなかったら、次もなにもないじゃない! この子は病気なんだよ!」
「おれの馬はあがり症なんだよ! 見てろ、てめえの兎なんか置き去りにしてやらあ!」
顔を真っ赤にした男は、脚の運びもぎこちない馬を無理やりひっぱり、リウから離れた。
リウは助けを求めて係員を見やった。しかし係員はかぶりを振った。
「規則では、棄権は本人の意志がないとだめなんですよ」
他の乗手たちも、一連の騒動などなかったかのように沈黙している。災難だったなというようにリウに肩をすくめてみせた初老の男がひとりだけで、あとは目を合わせもしない。まして男に忠告などしてやろうという素振りを見せる者など、いるはずもなかった。
リウは初老の男にうなずき返し、体ごとバルメルトウに振り向いた。
「……そういうこと、なんだろうね」
二十八人の乗手がいて、二十八の勝ちたい理由がある。そしてそのほとんどが、勝たねばならない事情へとつながっているのだろう。リウ自身、バルメルトウを天馬にするという目標のために勝ちたい。牧を存続させるという目的のために勝たねばならない。
そんな者たちにとっては、他の馬の不調は自分の幸運なのだ。また別の〈天馬競〉で出くわすかもしれない可能性も考えれば、ただ棄権するだけでなく、無理をしたために脚でも折ってくれれば、さらに都合がいい。
冷たい世界だった。背が急に薄ら寒くなった。リウは唇を噛みしめ、離れた場所で体をこわばらせている灰色の馬を見つめた。
自分にはそんな権限はない、しかも女に言われればあの男はさらに意固地になるに違いない、それどころか機嫌を損ねて殴られでもしたら――そんな言い訳の奥に、他の無言の乗手たちと同じ意地の悪い願いがひそんでいることを、リウは認めた。
「……わたしも同じ、冷たいやつだ」
胸のあたりにいやな固まりがつかえている。リウはこぶしを置いてみたが、少しも楽にはなってくれなかった。
東の空にぽつんと現われた小さな影が、一直線に旗をめがけて落ちるように飛んできた。
旗竿に止まったのは鳩だった。係員は慣れた様子で鳩をつかまえ、その足の通信管から薄い紙片を取り出し、すばやく目を走らせた。
フラシコの商人は鳩を使って遠隔地とのやりとりをするという話を、リウは思い出した。
係員の顔が紙片からあがった。
「朗報です。二十八組すべてが中継地を発ちました。一着はイシャーマ《黄金姫》組」
不意打ちの順位発表と出てきた名に、リウの心臓がどきんと跳ね上がった。
「書いてあるのは一着だけなのか!」
それまで静かだった乗手たちが騒ぎ出す。
「もちろん他も書いてありますよ」
乗手たちは再び口をつぐむ。
係員の声を聞きながら、そのくせリウの頭の片隅は勝手に別のことを考えている。
イシャーマ牧が出す組は、毎年〈天馬競〉どころか〈大天馬競〉の常連だ。複数の組が出る年もある。そのせいかどの年でも、イシャーマとだけ登録される組はない。イシャーマ・ダールグ組、といったふうに、その組を管理している一族の者の個人名も同時につけられる。
「二着、かなり離されたようですが、マグファル組」
昨日、リウはフラシコの町でカズートを見た。今日出走している組は、だからきっと彼が管理している。だが、彼はその組に自分の名をつけなかった。《黄金姫》などという、以前だったらリウにからかわれることを怖れて絶対に避けたに違いない名前をつけた。
「三着、ゴーブン組」
そんな柄にもない名前をつけた理由が気にかかる。どうでもいい、関係ないと思いつつ、リウの存在についに気づくことのなかった昨日のカズートの姿が脳裏を離れない。
「そして半馬身差でランダルム組です」
「――え!」
いまの係員の言葉を聞いたリウと、カズートについて考えていたリウと、くっきり分かれていた自分がまたひとりの自分になるまで、少し時間がかかった。カズートのことを無理やり頭から追い払う。
「四位……」
シャルスが乗るエギルは胸の狭い鹿毛の馬で、見るからに俊敏そうな引き締まった体躯と黒い四肢を持っている。シャルスが「高慢ちき」と笑うように日ごろ高々とかかげられている頭は、走り出した途端に低く伏せられて風を切る。
「やったよ、バルム」
バルメルトウの深い色合いに染まった瞳の底で、ちかりと光がまばたいた気がした。
ん、とリウはその瞳にうなずいた。
「ユーリシスもきっとやってくれる。だから、わたしたちもがんばろう」
係員の発表が終わった。さらに緊張の高まった中継地で、乗手たちは飽きもせずにそれぞれの仲間が走ってくるはずの東を見つめた。ゆるやかにうねった大地を吹きわたる風、そして馬たちの足踏みや息づかいばかりの中、人の声はまったくあがらなかった。
来た、という誰かのつぶやきが、だからやけに耳に響いた。
背にひらりとまたがった乗手を乗せて、かっかっと蹄を鳴らしながら踊るような足取りで位置についたのは、イシャーマ牧の月毛の馬だった。その首はほどよく曲がって、きつからずゆるからず手綱を受け止めている。それは乗手の見事な手並みによるものなのだが、まるで馬自身がこれから走る自分へ気合いを入れているかのように見えた。
緑の地平線を描く草原に現われた点は、見る間に乳色の馬とその乗手の姿へと変わった。
月毛の馬は十分に皆から遠ざかり、他の馬も乗手もなんの邪魔にもならない。それでも、おそらくは無意識のうちに圧倒されて、さらに数歩をよけた者たちがいた。
リウはよけなかった。けれども、まばたきを忘れたような顔は、自分も彼らとまったく変わらないだろうと思った。
天馬の疾走が始まる――この場に居合わせた者はすべてそのことに心を奪われていた。
やってきた乳色の馬の乗手には、顔を覆った風防布をとって笑う余裕すらあった。月毛の馬の乗手は落ち着いて旗棒を受け取り、仲間に片目をつぶって馬の腹を軽く蹴った。
薄く張りつめた月色の皮膚には、十分すぎるほどの合図だった。月毛の馬が走り出した。鋭い蹄にえぐられてはじかれた土くれがリウの足もとにまで飛んできた。
残された者たちは、ため息すら出なかった。
仲間を見送った乳色の馬の乗手はそんな観客たちに一瞥すら送ることなく鞍を下り、軽く息をはずませながら、水を求めて係員に近づいていった。
次は――リウは再び東へと目をむける。