ライドガール
「馬が見つからなかったからって、なにも兎で出てくるこたあねえだろうがよ」
無遠慮な笑い声が、とっておきの冗談だと自画自賛するようにあたりに響く。
リウは自分の鍔広帽を押さえると、その下できつく唇を噛んだ。言い返しはしない。リウの声を聞けば、相手は女と悟ってますます調子に乗るだけだ。
声を避けてさらに進んだリウの前に、月色の輝きが見えた。イシャーマ牧の馬だった。
「よう、兎のガキ! 見たか、そいつが馬ってもんだぜ!」
リウを追ってきた声が聞こえたらしい。月毛の馬の前、まるでその従者のように見える若い係員が、少しばかり同情的にリウを見た。
リウは彼から顔を隠すように、さらにぐいと鍔広帽を押し下げた。
「三走騎の方は騎乗してください。中継地へ先導します」
係員の声がした。
胸の中で心臓が暴れまくり、喉はしめつけられたように息苦しく、頭はかっと熱いのに体は底のほうからひんやり冷えていく、奇妙な感覚。リウはやっと三度目の〈天馬競〉で、やっとそうした感覚に慣れつつあった。
太陽はのろのろと空を渡り、ようやく天頂を過ぎたばかりだ。もし仮にシャルスが一番でランダットにつなぎ、ランダットもそのまま先頭を保ったとしても、競路の半分も過ぎたかどうかというところだろう。
まだ人馬の姿を見ることはないと知っていながら、リウの視線はつい東に向く。使い込んだバルメルトウの手綱ごと、人に幸運を運ぶというそのたてがみを指にからめてしまう。
おとなしく立つバルメルトウが首を曲げて、黒い鼻面をすりつけてきた。
「ん。みんな、きっと大丈夫だよ」
リウは柔らかなその耳にそっとささやいた。
「おまえも昨日、馬房で話した? エギルは強気な子だし、ユーリシスはいい子だったでしょ。だから絶対に、ちゃんとここまで旗棒を持ってきてくれるよ」
〈天馬競〉では、三組の人馬をどういった順で競路に配置するかも重要な鍵となる。
全頭一斉に走り出す一走馬には、まずなによりも群を抜け出す速力。一走の馬の作った差を引き継いで走る二走の馬には、持久力と集中力。そして、前の展開次第でどんな走りを求められるかわからない三走馬は、速さだけでも粘りだけでもない、そういったものすべてを総合した力――強さが求められる。バルメルトウの走りを見たシャルスもランダットも、三走馬はバルメルトウだと口を揃えて言ってくれた。
「そして最後はおまえだもの、バルム。おまえはどんな馬にだって負けないよ」
言いながら、リウは自分の右後方にいる馬をちらりと見やらずにはいられない。
三走をまかされた二十八頭の駿馬の中にあっても、際立って見事な月色に輝く馬。耳は落ち着いて風に立ち、長いたてがみが飾るすんなりした首には気品、力みなく大地を踏みしめる四肢には風格すら漂わせた、まさに天馬になるために生まれてきた馬。
「な、あれが馬ってもんだぜ。おめえのその不細工とは違えんだよ」
出発前にもリウをからかってきた男だった。帽子は古び、風防布もかなりくたびれて継ぎが当たっていた。そして小さな目が声音のとおり、意地悪くリウをにらんでいた。
ざっとそれらを見て取ると、リウは自分の帽子の鍔の影にさらに深く顔を隠した。
男は、なにもリウを説得して出走を取りやめさせようとしているわけではない。見栄えのしない馬を連れた小柄なリウを時間つぶしに使おうとしているだけだ。そんなものの相手になってやる気は、リウはさらさらなかった。
しかし、男はなおもからんできた。
「〈天馬競〉はな、ガキが自分ちのくだらねえ馬にまたがって、さあがんばって走りますよ、なんて世界じゃねえんだよ。目障りだ」
足もとに勢いよく唾が吐かれた。リウは黙って男から離れようとした。
「おい、人に話しかけられたら、はいと答えるもんだぜ。まともなしつけもされてねえガキのくせに、なに一人前のツラしてこんなところにいやがるんだ? ええ?」
逃げ場を探して頭をめぐらせた拍子に、男の馬の姿が見えた。
悪い馬ではない。それどころかかなりの駿馬と言っていい。灰色の体に黒いたてがみと尾を持った芦毛の牝馬で、例の月毛さえいなければ十分に人目を惹いたはずだ。牝馬を走らせる者は多数派ではないが、珍しいわけでもない。牡馬を負かすだけの脚を持った牝馬も存在する。この牝馬もそうした一頭なのだろう。
しかし、それは馬が普通の状態であればのことだった。
「――なに、これ」
リウは思わずつぶやいた。
灰色の牝馬の耳はほとんど前から見えないほど後ろに伏せられ、目の縁にわずかに見える白眼は充血している。不自然に強ばった全身の様子は、ひどくおびえているのか体調が悪いのか、ともかく〈天馬競〉に出られるような状態ではないことを明らかに示していた。
眉をひそめ、リウは男に顔を向ける。
「どういうこと? この子、おかしいよ」
リウが女だと気づいた男は、大げさに笑いながら声を張り上げた。
「おい、みんな知ってたか? ここにとんでもねえじゃじゃ馬がいるぜ!」
もしかしたら誰かがなにか答えようとしたのかもしれないが、それよりも早く、フラシコの町から皆を案内してきた若い係員が応じた。
「女性が出ても、規則としてはなんの問題もないですよ。牝馬だって走りますしね」
「そんなことを言ってんじゃねえんだよ! ガキでも許せねえってのに、こんなお嬢ちゃんがおれたちの向こうを張って走ろうってんだぜ? おまえも怒れよ、よくもフラシコの〈天馬競〉をなめてくれたもんだってよ!」
「こちらの方は、あなた同様、正式な受付をすませています。問題はありません」
「そういう話じゃねえだろ! フラシコの男どもはどうなってんだよ、自分のとこの葡萄酒で酔っぱらうしか能のねえ腑抜けぞろいかよ!」
男は、今度は係員に相手を変えようとしている。
注意が自分から逸れた隙に、リウはよりくわしく男の馬を見た。
馬は汗をかいている。〈天馬競〉に出ようという馬が、町からこの中継地までの移動程度でここまで汗をかくわけがない。現にバルメルトウは息ひとつ荒げなかった。
「この子、具合が悪いんじゃないの?」
リウは鋭い声を男にかけた。
男の顔がはじかれたようにリウに向いた。
「うるせえ、よけいなお世話だ!」
その瞬間、リウは男の心を理解した。
男はもちろん、自分の馬の異変に気づいている。気づいていながら、しかし出走を取りやめる決断を下せずにいる。
これだけの馬だ。本調子であれば、イシャーマ牧の月毛には及ばずとも二位を十分にねらえる。
男が何者なのかはわからない。だが、相応の時間と費用をかけてこの〈天馬競〉に出てきたことは疑いようもない。今回は見送って次を待つという気にはなれなかったのだろう。
自分だったらどうしただろう、とリウは考える。今朝、もしもバルメルトウが発熱していたとしたら、あるいは脚に異状が見つかったら。素直に出場をあきらめることができただろうか――その答は出ないまま、リウは男にさらに言う。
「だって、どう見てもおかしいのに!」
「人の馬にかまうんじゃねえ! 女でも容赦しねえぞ!」
「取り返しのつかないことになったらどうするの? 〈天馬競〉はここだけじゃないよ」