ライドガール
バルメルトウは汗をかいている。いきなり足を止めて休ませては、筋肉によくない。しばらく歩かせて筋肉をほぐし、少しずつ体温を下げていってやらなければならない。
「ん、お願い」
リウがバルメルトウから降りる間に、シャルスは自分の馬を厩舎に戻し、毛布をもってきてバルメルトウにかけた。リウはその手綱を引いて、シャルスと牧へと歩き出した。
「今日はどうしたんだい」
「三人目について相談しようと思って」
一〇歩分ほど、シャルスは返事をしなかった。それから顔をリウに向けた。
「なにか、よくないことでも?」
「え?」
「さっきから、ずっと怖い顔をしているよ」
リウは一瞬固まったあと、ぎこちなく微笑んだ。
「……お金、ないもの」
「必要なのかい」
「三人目になってほしい人がいるの。その人に払う礼金が要るでしょ」
「誰?」
「プルノズ農場のランダットさん」
シャルスは、物静かな顔立ちにふさわしく、片方の眉だけをぴくりと動かした。
「あのいつもぶらぶらしている赤毛の人?」
「そう、その人」
「あの人が馬に乗ったところなんて、見たことがないな」
「わたしは見たよ。昨日プルノズ農場に行ったとき、うちの馬車馬が暴れたの。あの人、立ち上がった馬に飛び乗って、あっという間になだめちゃった」
「それはすごいな……」
リウはバルメルトウの手綱を握る手に力をこめる。
「そのときにぴんと来たの。あの人、たぶん〈天馬競〉の助っ人をしてるって」
「勘?」
「馬の乗手って、それもとても上手な人って、なんとなくわからない?」
それは細身でしなやかな体躯かもしれず、そこにぴんと一本すじを通したようなまっすぐな背かもしれない。あるいは、尻込みを知らないまなざしかもしれない。
〈天馬競〉出走など考えられない小さな牧、それも女に生まれついてはいても、リウはそうした天性の乗手をよく知っている。天から資質を贈られた少年がどんなふうに一人前の乗手になっていくか、つぶさに見てきたのだ――カズートという昔なじみを。
ぐいと後ろに引き戻したバルメルトウの頭の動きで、リウは自分が知らないうちに手綱をきつく引きすぎていたことを知った。ごめん、とふりむいてバルメルトウに謝る。
バルメルトウは離れた大きな両眼をじっとリウに向けて応えた。深い色に輝くその目は、リウの心のうちをすっかり知っているかのようだった。
大丈夫、となんとなくうなずき返して、リウはまた前を向いた。
「それに、ときどきどこかに出かけてお金を持ってくるって。間違いないと思わない?」
シャルスはわずかに表情を硬くした。
「……たしかイシャーマ牧に新しく入ったメイドは、プルノズ農場の子だったね」
「そう、ローナ。ほら、この前イシャーマ牧に行ったときに会って、昨日、偶然ジョスリイの町でも会って。それで家に招いてくれたの」
「じゃあ、ランダットもイシャーマ牧に関係が――」
「そんなことない。ローナだってランダットさんが馬に乗るなんて知らなかったんだよ」
それから、とリウは眉間に力をこめる。
「約束どおりにしたから。イシャーマ牧のことはもう気にしないで」
「どういうこと?」
「カズートに、もう会えないからうちにも来ないようにって、ちゃんと言った。だから、この話はこれでおしまい」
「……わかったよ」
同じ言葉でも、シャルスのそれはカズートとはまったく違った。彼は優しくうなずくと、それから微笑した。
「ランダットに会ってみたいな。その上で話がまとまるようなら、礼金はまかせてくれ」
「ん、悪いけど、半額貸しといて」
「僕を引き込んでおいて、まだわかってないのかい? これはもう僕の戦いでもあるんだ。そのための出費は当然だよ」
「そう、わたしの戦いでもあるよ。だから半額出すのは当然」
リウは振り向いて、規則正しく歩くバルメルトウの澄んだ両眼を見つめた。
「絶対に勝って、そのお金で返すから」
ローナの休暇が終わったプルノズ農場はまったくの無人に見えた。散らばった羊たちは、羊飼いにも牧羊犬にも見守られることなく、彼らの先祖がそうしていたように、好き勝手に草をはんでいる。夜も家畜舎に入れられることなく、よりそって眠るのかもしれない。
うちの羊なんて売れ残りのやせっぽちばっかりだし、わざわざ盗むような人もいないです――そんなローナの苦笑まじりの言葉を思い出しながら、リウは母屋へ行ってみた。
「こんにちは!」
外から呼ばわってみたが、家の中に気配はない。
「いないんじゃないのかな」
シャルスが言った。
リウはバルメルトウの手綱をシャルスにあずけ、裏手にまわってみた。
「あのー!」
裏庭には使われなくなって久しいとおぼしき二輪の荷馬車が傾いたまま放っておかれて、片一方が折れた引き棒を地面に投げ出している。
なんとなく予感があったのは、牧にふらりとやってくる野良猫が、よくそんな感じで眠っているからかもしれない。リウはこちらからは見えない荷台の前へと回り込んだ。
「……お?」
傾いた荷台の上、赤毛の頭の下で手を組んで寝転がっていたランダットが、眠そうに片目をあけた。
「こんにちは、ランダットさん。ランダルム牧のリウです」
「あー。知ってる」
ランダットは荷台から上体を起こすと、ふわあとあくびをして、ぼさぼさの髪をかいた。
妙な返事にあきれたリウに、ランダットはさらに意外な返事をした。
「ここに来たとき、最初に見たから」
ランダットはリウの表情にはおかまいなしに、今度は両手を頭上に伸ばしながら、またあくびをした。
「ランダルム牧。道から看板が見えて、なんかいいって思ってさ」
たしかに、馬を買いに来る客への案内として、街道からも見えるように看板を立ててある。そのことを言っているらしい、とやっとリウは理解したが、しかしそれでなにを彼が伝えたいのかはまだわからない。
ランダットはリウを上目づかい気味に見上げた。
「で、考えてみたら、おれの名前、ランダットって気がしたんだよね。だからさ。ランダルム牧って、よく覚えてる」
「……考えたら?」
「そ。おれ、ここに来たとき自分がどこの誰か忘れてたから。ま、どうだっていいけど」
「え」
ランダットがあまりにさらりと言ったので、リウの反応は一瞬遅れた。
「ええっ!? よ、よくないじゃないですか! ――あ、でも、自分の年がわかるってことは、そのあと思い出せたんですよね?」
「あー、全然」
「だ、だってローナが三十二歳って」
「うん、じいちゃんが十八くらいだなって決めて。そっから十四年だから、いま三十二」
「十四年も思い出せてないんですか!?」
「うん」
「た、大変なことじゃないですか!」
「なんで?」
ランダットはきょとんとしている。
当たり前と思い込んでいたことを改めて説明するのは、ひどく難しかった。リウは口をあけたまま、眉間にしわをよせた。
「なんでって、えーと……だから」
さっきリウがあげた声が聞こえたらしい。
「どうかしたのかい?」
馬をつないできたシャルスがやってきた。
「……あのね。ランダットさん、自分の昔のことずっと思い出せないんだって」
彼の眉もはねあがる。
かえってランダット自身のほうが、他人事のような顔だ。