ライドガール
ジョスリイは北部のどこにでもある田舎町で、草原の道が北東と北西の二股に分かれたところに開けている。目抜き通りには平石が敷き詰められ、両脇にも石造りの建物が並び、各種の店が入っている。
適当な場所に荷馬車を止めて飛び降りると、リウはその中のひとつ、イスラの店のドアを開けた。リウがまだ子供のころから老婆だった店主のイスラは、カウンターのむこうでしなびた手をあげてみせるあいだも、同じく老婆の客と早口のおしゃべりを続けていた。
彼女の店は雑貨を扱っている。リウは棚に積まれた布地にむかった。先日生まれた仔馬用の馬服にできる布がさらに値を下げていないか、慎重にメモ書きと照らし合わせていく。
「……あの、リウさんですよね?」
おずおずとした声に、リウは振り向いた。
やっぱり、と両手を合わせたのは、質素だがこざっぱりとした服の少女だった。一昔前の型の帽子をかぶって、ふっくらしたあごの下できゅっと幅広のリボンを結んでいる。
「この前はありがとうございました! おかげでお仕事もあまり怖くなくなりました」
少女の言葉とイスラの店にわずかに残る香りが、頭の中でつながった。
「ああ――イシャーマ牧の」
あのときコーヒーを出してくれたメイドだった。
少女はうれしそうに白い歯をのぞかせてうなずいた。イシャーマ牧でのお仕着せ姿はもっと幼い雰囲気だったが、こうしてみると十三、四歳くらいにはなっているらしい。
「はい、メイドをしています、ローナです」
「こんにちは、ローナ。おつかい?」
いいえ、とローナはかぶりを振って、帽子からこぼれる亜麻色のお下げを揺らした。
「昨日と今日お休みなんで、うちに帰ってきたんです。この近くなんですよ」
「え、そうなの?」
「はい。えっと、ご存じですか? プルノズ農場です」
昔は牧だったのだと、父の思い出話に聞いていた農場だった。自分のすぐ足もとにもぽっかり口を開けている廃業という穴を否応なく思い出させられ、リウは一瞬返事が遅れた。
その間にローナが申し出た。
「あの、もしお時間があったら、お茶でもいかがですか? 遠くじゃないですし」
え、というリウのとまどいを、断わられる前触れと思ったらしい。ローナは顔を赤くし、咳き込むような勢いで話し出した。
「あたし、リウさんにはほんとに感謝してるんです! あたしなんか、イシャーマ牧みたいに立派なところで働けるわけないってずっと思ってて、旦那さまも奥さまも若さまたちも、それに他の使用人も、なんだかみんな怖くって、それでよけいに失敗ばかりで! だけどあのあとカズート若さまが、リウさんはあんなふうに言ったけれど絶対に本気にするんじゃないって、すっごく真剣な顔で言ってきて、あたし、それがもうおかしくって」
勢いばかりがあふれていて、ローナの話は要領を得ない。自分でもわかっているのか、ローナはあせったようにますます早口になっていく。
「あの、それで、それからあたし、すうっと気が楽になって、お仕事もなんだか楽しくなってきて! だから、それで、みんなみんなリウさんのおかげだって!」
とりあえず、あふれんばかりの感謝の気持ちだけは伝わってきた。
「そう、よかった。だけど気にしないで。わたしはただ昔なじみで、カズートが誤解されやすい顔をしてるのはよく知ってるってだけだから」
「でもあたし、本当に助かって!」
ぽっちゃりと柔らかなローナの両手が、リウの手をつかまえる。
「だから、ぜひ、よかったら!」
よかったらと口では言っているが、断わりでもしたらこの場で泣かれそうな勢いだった。
「あ、ありがとう……それじゃあ、ちょっとだけ」
「はい!」
ローナの手が、さらにきつくリウの手を握りしめた。
町を北東に出て、丘をひとつ越えたところにあるプルノズ農場は、農場と呼ぶのもはばかられるほどこぢんまりとしていた。黒っぽい石垣のむこうに、低い林檎の木と母屋と納屋とその横の狭い畑、それで全部だ。その背後に広がるかつては馬が駆けていたであろうなだらかな丘陵は、いまは深い草むらが風に波打っている。
ローナはリウの荷馬車から降りると、石垣の継ぎ目の扉を開けてリウが通るのを待ち、そろそろと閉めて慎重に閂をかけた。
「羊だけはまだ何頭かいるんです」
そんなローナの言葉どおり、もこもこと草地から生えているような羊たちの間を抜けて、リウは母屋の前に荷馬車を止めた。ローナがまた荷馬車から降りた。
「よかったら、ここでいかがですか?」
ローナは母屋のポーチデッキを示した。頑丈そうな板間には簡素な長椅子が置かれてあって、たしかにちょっとしたお茶には十分そうだった。
「ありがとう。そうだね、今日は気持ちのいい日だし」
そもそも長居するつもりもない。リウは素直にうなずき、長椅子に座った。
仕度をしてきますね、とローナは家の中に入った。
壁のすぐむこうに台所があるのだろう。窓が開いた後、楽しげなおしゃべりにも似たかちゃかちゃと陶器が触れ合う音が聞こえてくる。
ちょっとくすぐったい心持ちになりながら、リウはのんびりとした羊たちを眺めた。
男は、そんな牧歌的な景色の中に突然現われた。
「お?」
好き勝手な方向に散った赤毛に、細い顔。シャツを痩せた胸もとまであけて、両手の親指をベルトにひっかけている。
あまりに男の出現が突然で、リウは驚くより前にとまどった。
「客?」
男はリウに尋ねたが、返事を待つ気配もなく、横を向いてあくびをした。
年齢も正体もよくわからない男だった。贅肉のかけらもない体や顔には少年の面影が濃いが、顎先に生えた不精髭はそれなりの年齢に思わせる。ローナの兄にしては農場で働いている雰囲気がなく、といっていかがわしい場所で酒と賭博にいれあげているといった崩れた気配もない。ただここにいるとでもいったふうの、不思議な空気をまとっている。
こうも突然現われたということは、おそらく母屋の裏にいたのだろう。少なくとも自分よりは年上でローナに近しい人間には違いないと、リウはひとまず結論づけた。
「はい。あの、お茶に呼んでもらいました」
「あ、そ。ローナ、帰ってきてんだ?」
「家の中にいると思いますけど」
「ふうん」
男も家の中に入っていった。
すぐにローナの甲高い声が聞こえてきた。
「やめてよ、それはリウさんの分! 父ちゃんの分はちゃんとほかにあるってば!」
リウはぱちくりとまばたいた。
「……父ちゃん?」
「もう、ほんっとにすみません! 父ちゃんが失礼をして……」
真っ赤な顔で謝るローナのむこうで、彼女の父だという男は長椅子の上に両膝を立てて座り、他人事のような横顔で茶をすすっている。
「う、ううん、別に……」
「変わってるんです。もう三十二にもなるのに、すっごく子供みたいで」
ローナの赤い顔はまだ元に戻らない。
「昔っからこうなんです。死んだ母ちゃんも、父ちゃんは猫みたいなもんだから、いるってだけで満足しなきゃいけないって。そうしたら鼠の一匹くらい獲ってきてくれるって」
目の前の娘にいいように言われる若い父親は、ふわあと顔の半分を口にしてあくびをした。たしかに赤縞猫にどこか似ている。