ともだちのしるし
四月七日(水)「突然の申し出」
授業が始まってから二日、気付いた事がある。それは、藤ノ宮さんも授業を受けるんだという、当たり前過ぎる事だった。だって今までの一年間は、体育館で表彰される姿と、廊下と、校舎裏にあるテニスコートで見かけるだけだったから……。私と同じ高校生なんだから、授業だって受けるしテストだって受ける。それは当然の事なのに、今頃その事に気付く程、私の中からはすっかりそれらは抜け落ちていた。彼女をなにか神聖な存在として見ている自分を再認識させられた。
授業中、何度も目が向いてしまう。あ、薄いブルーのシャープペンシルを使ってる。あのシャープペンシル、どこに売ってるんだろう。あ、黒板消されちゃった。まだ途中までしかノート取ってないのに。藤ノ宮さんは、私と同じ教科書、同じ黒板を見て同じ授業を受けている。なんだか不思議な感覚だ。でも、同じ高校生で同じ様に授業を受けて、同じ様に部活をしていても、テニスは全国大会常連で成績が常に学年トップクラスの人と、これまで賞と呼べるようなものを取った事がなく、学力もやっと平均に届く程度の私では、やっぱり違うんだな。結局そういう結論に達する。
放課後、私は愛華ちゃんと部活へ行くため廊下へと出た。下校する人や部活へ行く人でごった返すその中で、一際賑わいを見せている一角があった。
「お、藤ノ宮さんだ。ホント人気あるよなー」
「うん、そうだね」
「行ってみなよ」
当然、私の答えは決まっている。頭の中に準備されているその言葉を口にしようとした時、愛華ちゃんは『ほら』と両手で背中を押してきた。その行動は全く予想していなかったから、踏ん張りの利いていない体のまま、けつまずくようにその距離を縮めた。
「ひゃぅ!」
い、今なんて!? なんか変な声が出ちゃったよ! 藤ノ宮さんとの距離はまだ五メートル位あるのに、自分の意としない接近は、私を慌てさせるには十分だった。今度は目の前に突き出されるのではないかと、慌てて振り返った。
「や、やめてよ愛華ちゃん!」
「ごめんごめん。部室行こっか」
「う、うん」
テニスコートとは逆方向にある美術室へ向かおうとした時、足が鉛になったかのような重さと、全身をギプスで固められたかのような不自由さを感じた。自分がこんなに緊張していたのかと気付いた。歩行という動作を意識的に四肢へ命令し、その動きが正しくなされているかを確認する。それを何度か繰り返していくと、少しずつ鉛とギプスが外れていった。自分の体が少し軽くなったような気がしてちょっと嬉しいな、なんて思っていると、後ろで一際大きい声が聞こえた。
「おねえちゃ〜〜〜〜〜ん! おね〜ちゃ〜〜〜〜〜ん!」
藤ノ宮さんのファンの一人なんだろう。ところが、声がどんどん大きくなってくるのに違和感を覚えた。その声が私のすぐ後ろに迫った途端、背中に衝撃を受けた。
(倒れる!)
廊下が迫ってくる。このままでは間違いなく倒れる。手を出して受け身を……駄目、もし怪我して筆を握れなくなったら絵が描けなくなる。それなら身体を半回転させて、せめて背中を下にすれば大丈夫かも知れない。そうだ、それでいこう。あ、一つ重要な事を忘れていた。私、運動音痴だった!
ビターーン!
そのまま前のめりに倒れた。しばらく時間が止まった気がした。
「痛ったぁー」
はっとして顔を上げる。手は何ともないみたい。身体は痛いけど、手が無事ならとりあえずは良かった。
「う、うぅ〜ん」
背中から何か聞こえた。さらにはっとする。背中に、締め付けられる感覚と重みがある。背中にくっ付いている何かがある。これを確認しようと、そのまま背中の何かと向かい合わせになるように体勢を変えた。その正体は、肩口までの茶色い髪、白いカチューシャ、制服に結ばれたリボンは、一年生である事を示す青い色。そして、首にはリボン状で緑色のチョーカーが巻いてあって、そこには鈴が付いていた。
「おねえちゃん!」
「お、お姉ちゃん!?」
(だ、だれ?)
「おねえちゃん!」
「あ、あなたは誰なの? 私はあなたのお姉ちゃんじゃないし……、そ、そもそもあなたの事知らないし、人違いじゃ……」
「ううん、知ってるよ」
「知って……る?」
彼女の言葉を理解出来なかった。当然だよ、目の前にいる女の子の事は全く知らないんだから。一応、これまでの十六年の人生で数えるほどしかいなかった友人の顔、従姉の顔、近所のケーキ屋に住んでいる沙羅ちゃん。中学時代の後輩の顔……。ほらやっぱりだ。思い浮かんだ顔を並べてみたけど、その中に目の前の女の子はいなかった。でも今は、この問題はとりあえず置いておいて、まずこの状況をなんとかしないといけない。
「あ……あの、と、とりあえずどいて欲しいんだけど。この体勢はちょっと……」
恥ずかしい。"顔から火が出る"とは正にこの事。注目されるのは嫌なのに。そう、廊下の真ん中で女生徒二人が抱き合っているんだから。違った、正確には抱き合ってるんじゃなくて一方的に抱きつかれているんだった。そうだ、私は抱きついてない。勝手に抱きついてきて、こんな事になって。本当に迷惑だ。
「あっ、ごめんなさ〜い」
ようやく離れてくれた。私も立ち上がり制服を手ではらう。
「あなたは誰なの? 知ってるって言ったけど、私はあなたの事なんて知らないんだけど」
『あなたの事なんて』だなんて、思わず失礼な言い方をしてしまった。だけど、そんな事は気にも留めていないかのように、目の前の女の子は更に驚く事を言った。
「わたしの名前は白! 鈴川白(すずかわ しろ)! おねえちゃん、白の友達になって!」
「……は?」
この反応は正解だと自分では思う。もっと良い反応が他にあるにしても、間違ってはいないはず。だって、たった一分にも満たない、そんなほんの少し前に初めて会った女の子に、友達になってと言われたんだから。
「鈴川さん、だっけ? ……えっと、ちょっと待って。友達って……」
「うん! 白の友達になって!」
なんと答えたらいい? いいよって言えばいいの? いや、そんなの有り得ない。人の迷惑を考えずに後ろからぶつかってきて、いきなり友達になれる訳ない。じゃあ、断ろうか。でも、私と友達になりたい気持ちを無視して、無下に断るのは何だか気が引ける。ああ、分からなくなってきた。そんな混乱した頭で考えた私の言葉と行動は、決して良いものではなかった。
「ご、ごめんなさい!」
捨て台詞とも取れる言葉を発するのと同時に、その場を逃げるように走っていた。
「待ってよ〜、友達になって〜!」
ああ、どうしてこんな行動しちゃったんだろう。すごく失礼な先輩じゃないか。だけど、後ろで聞く声が近づいてこないのを感じて安心した。前には愛華ちゃんの姿はない。私があんな事になっていたのに、愛華ちゃんが先に行ってしまった事は少しショックだった。
美術室のドアの前で、もう一度走ってきた方を見る。良かった、やっぱり追いかけて来てないみたい。気持ちを切り替えて、ドアに手をかけようとしたら自然に開いて驚いた。
「あ、美胡。どこ行ってたの?」
「愛華ちゃん、ひどいよ。先に行っちゃうなんて」